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中道政治再生の理念とは〜共和主義の確立を 本稿でいう中道とは従来の意味よりは少し広く考えており、ここでは非自民・非共産の概念として用いている。もともと中道というのは、右にも左にも偏らない立場であるが、単に真ん中という意味ではなくて、人間の幸福と社会全体の観点から状況に応じて、最も正しい選択をしていこうという立場である。 では二十一世紀を目前にした日本にとっての中道とはいかなる立場であろうか。それは「私」を超える「社会全体の利益を考える立場」であろうと考えている。それは決して滅私奉公ではなく、また「お上」の立場でもない。個人主義であると同時に社会全体の利益が実現されるような理念でなければならない。それは「独立した個人」が、所属する「共同体」に対して責任感を持ち、かつ貢献していくような立場ではないだろうか。単に他人に迷惑をかけないという能動的な生き方である。 しかしその出発点は独立し、自立した「個人」でなければならない。共同体にぶら下がることを望んでいるような依存心の強い個人ではない。責任感に充ちた個人が共同で自治を行い、それが社会全体の利益になるような理念が必要とされているのではないだろうか。それは「共和主義」と呼べるだろう。 元来個人主義とは自らの運命は自らが決めるというものであり、国家主義と対置される。「共和主義」とは国家主義のことではない。所属する共同体の運命にかかわることは、自分達が決めるという態度である。「お上」に決めてもらう、あるいは任せておくというような受動的な姿勢ではない。「共和主義」は実は日本における個人と組織、あるいは個人と社会の関係について根本的な変容を迫る意義をもつと私は思っている。 個人と組織の関係については、日本人の生き方の永遠のテーマであると言っても過言では無い。我々日本人は個人の独立自尊も中途半端であり、いつの間にか公共心は消えうせて、集団主義、あるいは付和雷同型の団結という情けない姿が現在も続いているのではないだろうか。 かつてアメリカのケネディ大統領はその就任演説で「国家が諸君のために何をやってくれるかと問うな。諸君が国家のために何ができるかと問いたまえ。」と述べたが、これほど「個人の独立」と「共同の自治」という「共和主義」的精神を明確に表現しているものはない。そしてアメリカ民主党のケネディ大統領がこの精神を訴えているのである。意外にも私はここに21世紀日本の中道政治がめざすべき理念があると思うのである。
もちろんだからと言って私は、「国家」がはじめにありき、という態度にくみする訳ではない。あくまでも自由で独立自尊の「個人」が前提である。同時に責任感と義務感をも兼ね備えた諸個人による「自治」ということを重要視するのである。この「自治」なくして、本当の意味の社会全体の利益、あるいは「公」はないと考える。「自治」という行為を通じて、個人の尊厳と社会の繁栄、平和を実現していこうというのが「共和主義」の理念である。 この「共和主義」は、私利私欲中心の思想からの脱却でもある。私欲と社会全体の利益との調和を図る思想である。これは言うは易く行い難しと言われるかもしれないが、ここに「共和主義」の理想がある。私欲がなければ社会の発展はない。同時に私欲だけでは社会は破滅する。かといって公益が前面に出過ぎれば滅私奉公となり、その陰でとんでもないエゴイストが暗躍する。だから私欲と公益とのバランスをどうとるかが、最も重大な課題となる。この理想に向かって政治・行政の具体的な改革を進めていかなければならない。 「共和主義」の具体化
「共和主義」こそ21世紀の理想 小沢一郎氏を非難する人は多いが、はたして彼らに小沢氏をこえる国家像があるだろうか。ほとんどないのが事実である。「普通の国」はひとつの理念型である。しかしあえて私は本稿で大胆にも、中道政治の再生を通して「共和主義」の理念を提示することを試みた。今後この理念のもとより具体的な日本論を展開したい。
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