中道政治の再生

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戦後日本の思想〜私利私欲中心主義

自民党と共産党だけが勢いづいている現代日本の現状を観るとき、やはり我々は社会の基底部にある戦後日本の思想に思いを致す必要がある。この点についてはこれまでに多くの識者が論じておられるので私のような若輩にこの論点を語る資格はないが、あえて私なりの考えを申し上げるならば、ひとつは私利私欲中心主義であるのではないか。そしてこれを自民党と共産党は逆手にとって成功したとも言えよう。 私はここで一部の評論家のように自分のことを棚に置いて教訓めいたことを言うつもりは全くない。人間の本質として欲望は否定できないものであり、禁欲を説くだけでは時代錯誤である。 自民党はまさに多くの国民を政府にぶら下がらせることによって政権党足り得たのであり、また共産党は資本主義社会において疎外された人々の不満を、経済的に充足することに
よって支持を拡大してきたのである。 戦前の滅私奉公の裏返しで、戦後は「私」ばかりが闊歩していると言われる。「公」とは「お上」のことであり、真の意味での公共心が消滅したことはよく指摘される。この私利私欲中心思想が様々な問題を引き起こしてきたことはよくご承知のとおりである。

中道政治再生の理念とは〜共和主義の確立を

本稿でいう中道とは従来の意味よりは少し広く考えており、ここでは非自民・非共産の概念として用いている。もともと中道というのは、右にも左にも偏らない立場であるが、単に真ん中という意味ではなくて、人間の幸福と社会全体の観点から状況に応じて、最も正しい選択をしていこうという立場である。

では二十一世紀を目前にした日本にとっての中道とはいかなる立場であろうか。それは「私」を超える「社会全体の利益を考える立場」であろうと考えている。それは決して滅私奉公ではなく、また「お上」の立場でもない。個人主義であると同時に社会全体の利益が実現されるような理念でなければならない。それは「独立した個人」が、所属する「共同体」に対して責任感を持ち、かつ貢献していくような立場ではないだろうか。単に他人に迷惑をかけないという能動的な生き方である。

しかしその出発点は独立し、自立した「個人」でなければならない。共同体にぶら下がることを望んでいるような依存心の強い個人ではない。責任感に充ちた個人が共同で自治を行い、それが社会全体の利益になるような理念が必要とされているのではないだろうか。それは「共和主義」と呼べるだろう。

元来個人主義とは自らの運命は自らが決めるというものであり、国家主義と対置される。「共和主義」とは国家主義のことではない。所属する共同体の運命にかかわることは、自分達が決めるという態度である。「お上」に決めてもらう、あるいは任せておくというような受動的な姿勢ではない。「共和主義」は実は日本における個人と組織、あるいは個人と社会の関係について根本的な変容を迫る意義をもつと私は思っている。

個人と組織の関係については、日本人の生き方の永遠のテーマであると言っても過言では無い。我々日本人は個人の独立自尊も中途半端であり、いつの間にか公共心は消えうせて、集団主義、あるいは付和雷同型の団結という情けない姿が現在も続いているのではないだろうか。

かつてアメリカのケネディ大統領はその就任演説で「国家が諸君のために何をやってくれるかと問うな。諸君が国家のために何ができるかと問いたまえ。」と述べたが、これほど「個人の独立」と「共同の自治」という「共和主義」的精神を明確に表現しているものはない。そしてアメリカ民主党のケネディ大統領がこの精神を訴えているのである。意外にも私はここに21世紀日本の中道政治がめざすべき理念があると思うのである。

最近「市民」、あるいは「市民の時代」という表現が使われることが多い。日本の民主党なども「市民」が主役の時代を築くと訴えている。これは官僚主導の政治を打破するという文脈で使用しているのだが、では「市民」という概念の中身が今一つよくわからない。

恐らく戦後の進歩的文化人の影響を受けて、国家と個人を対置させ、国家からの自由、基本的人権を守り抜く主体としての「市民」という意味合いであろうと推測される。しかし「個人の自由や平等や博愛は、せいぜい西洋人にとっては『市民』観念の表層の半分に過ぎない。
いったん、緊急の事態となれば、『祖国のために死ぬ』という観念がさしたるためらいもなく発動されるのだ。ここに『市民』観念の隠された半分がある。」(佐伯啓思【《市民》とは誰か】)。したがって民主党のいう「市民」とは、日本では権利の主張に重点を置く「私民」に近い概念となる。それは民主党の安全保障政策における「有事駐留論」などをみれば明らかである。

もちろんだからと言って私は、「国家」がはじめにありき、という態度にくみする訳ではない。あくまでも自由で独立自尊の「個人」が前提である。同時に責任感と義務感をも兼ね備えた諸個人による「自治」ということを重要視するのである。この「自治」なくして、本当の意味の社会全体の利益、あるいは「公」はないと考える。「自治」という行為を通じて、個人の尊厳と社会の繁栄、平和を実現していこうというのが「共和主義」の理念である。

この「共和主義」は、私利私欲中心の思想からの脱却でもある。私欲と社会全体の利益との調和を図る思想である。これは言うは易く行い難しと言われるかもしれないが、ここに「共和主義」の理想がある。私欲がなければ社会の発展はない。同時に私欲だけでは社会は破滅する。かといって公益が前面に出過ぎれば滅私奉公となり、その陰でとんでもないエゴイストが暗躍する。だから私欲と公益とのバランスをどうとるかが、最も重大な課題となる。この理想に向かって政治・行政の具体的な改革を進めていかなければならない。


「共和主義」の具体化

私は三つの自治を提案する。それは、人間の自治、
地方の自治、国の自治である。

人間の自治とは分かりにくい言葉であるが、人間が私欲をコントロールできるようになるということである。
そのための教育論を説くものである。

地方の自治は抜本的な地方分権国家をめざすこと
である。

国の自治とは外交・防衛に関することであり、他国を
侵略してはならないことは当然として、自分の国は自
分で守るという方針を指す。さらに世界に貢献しゆく
外交を展開することである。


「共和主義」こそ21世紀の理想

小沢一郎氏を非難する人は多いが、はたして彼らに小沢氏をこえる国家像があるだろうか。ほとんどないのが事実である。「普通の国」はひとつの理念型である。しかしあえて私は本稿で大胆にも、中道政治の再生を通して「共和主義」の理念を提示することを試みた。今後この理念のもとより具体的な日本論を展開したい。


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