『武士道』(新渡戸稲造著)についてもう少し考えてみたい。
『武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり、思慮、知識、弁論等知的才能は重んぜられなかった。』『「知」という語は、主として叡智を意味したのであって、知識には極めて付随的地位が与えられたに過ぎない。』『武士は本質的に行動の人であった。』 今や日本人が忘れ去ってしまっている「品性」ということが、武士の教育目的にあったというのは感動的である。政治家の品性、そして言論の品性はとても重要である。テレビ時代にあって言論戦は大切であるが、政治家の品性に裏打ちされた人のこころを打つ言論が求められている。口数多く相手を罵り、言いたいことを言えば良いというものではない。また現代社会は知識人に不当に高い評価を与えている。むしろ、仁、義、勇、智などの道徳を実践行動するリーダーが求められているのではないか。
『知識ではなく品性が、頭脳ではなく霊魂が琢磨啓発の素材として選ばれる時、教師の職業は神聖なる性質を帯びる。「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは師である。」この観念を持ってするが故に、師たる者の受くる尊敬は極めて高くあった。かかる信頼と尊敬とを青少年より喚び出だすほどの人物は、必然的に優れたる人格を有しかつ学識を兼ね備えていなければならなかった。』 なぜ日本において「師」という存在が尊敬されるのかは、新渡戸博士のこの言によって明らかである。しかし21世紀の日本に、真に「師」に値する人物がほとんどいないことも事実である。教育の目的は真の人間を造ることであって、単なる知識の伝達ではない。何人を有名大学に合格させたかではない。最も偏差値の高い大学に合格し、最難関の資格試験を一番でパスしたとしても、自分のことだけしか考えないエゴイスト、地位や学歴、資産・所得で大衆を見下す俗物を養成していたのでは、人間を造ったとは言えない。それは「受験オタク」か「知識餓鬼」あるいは「単なる機械」に過ぎない。人間の値打ちは、金の多寡や地位・学歴の高低ではなく、倫理(道徳)の高さで決まる。 つづく |