私の政治哲学(第5回)

『代表的日本人』 (内村鑑三著)

この名著には日本を代表する五人の人物について論及されている。すなわち、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹そして日蓮である。今回はこの中から「中江藤樹」について考察する。

「中江藤樹」


『(昔の日本の教育について)私どもは学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。私どもはそれを真の人、君子と称した。英語でいうジェントルマンに近い。』『おもに教えられたのは「道徳」、それも実践道徳であった。』

 これは現代でも最高の教育目的と言えるだろう。多くの現代の学校は「知的修練の売り場」と堕していないだろうか。しかしそれにしても今、まじめに「道徳」を教えている学校がどれだけあるだろうか。戦前の国家主義的修身ではなく、自由と民主主義の時代にふさわしい新しい「道徳」のあり方が問われている。


『君子は、日々自分に訪れる小善をゆるがせにしない。大善も出会えば行う。ただ求めようとしないだけである。大善は少なく小善は多い。大善は名声をもたらすが小善は徳をもたらす。世の人は名を好むために大善を求める。しかしながら名のためになされるならば、いかなる大善も小さくなる。君子は多くの小善から徳をもたらす。実に徳にまさる善事はない。徳はあらゆる大善の源である。』

 選挙に勝とうとすると、顔と名前を売らなければならないとよく言われる。しかし本当の政治家は中江藤樹先生の言われるとおりの人物でなくてはならない。誠に教えられる一節であり、私自身大いに反省するばかりである。


『学者とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くならば学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を備えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。』

現代社会においては、痛烈なご指摘である。テレビに出ていわゆる有名な学者と呼ばれる人でも、中江藤樹先生の眼力にかなう人はどれだけいるのだろうか。しかしこの批判は、私を含めて政治家についても当てはまる。さて、先生は「謙譲の徳」に最高の地位を与えており、そこから一切の道徳が生じる基本的な道徳とされている。最後に中江藤樹先生の次の文章を紹介して、一旦「私の政治哲学」を終了したい。

『学者はまず慢心を捨て、謙徳を求めないならば、どんなに学問才能があろうとも俗衆の腐肉を脱した地位にあるとは言えない。慢心は損を招き、謙譲は天の法である。謙譲は虚である。心が虚であるならば、善悪の判断は自然に生じる。』

『精神的であることは虚であり、虚であることが精神的である。このことをよくわきまえなければならない。』

『徳を持つことを望むなら、毎日善をしなければならない。一善をすると一悪が去る。日々善をなせば、日々悪は去る。昼が長くなれば夜が短くなるように、善をつとめるならば、すべての悪は消え去る。』

『谷の窪にも山あいにも、この国のいたるところに聖賢はいる。ただ、その人々は自分を現さないから、世に知られない。それが真の聖賢であって、世に名の鳴り渡った人々はとるに足りない。』



おわり。

BACKHOME