私の政治哲学(第2回)

『職業としての政治』(マックス・ヴェーバー著)

これは現代においても、真の政治家たらんとする者ならば必読の書と言える。国民から良い評判だけを得ようとする政治屋は読む必要は無い。著者は次のように述べる。

私(政治の本質とは)『要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である。』『政治を行うものは権力を求める。その場合、権力を別の目的(高邁な目的または利己的な目的)のための手段として追求するか、それとも権力を「それ自体のために」つまり権力自体がもたらす優越感を満喫するために追求するか、そのどちらかである。』

至言である。万年野党というのは政治に参画していないということになる。きれい事ばかり並べたて筋を通しているように見せかけて、与党であることはけしからんと言っているうちは真の政党政治ではない。

我々は、権力を利己的な目的のために追求してはならないし、また権力者としての優越感にひたることは厳に戒めなければならない。当初は高邁な理想のために政治家になった者でも、次第にこのような傾向に陥ることがある。これを防ぐには、余程の自己統治と、いつも地域や人々の中に身を投じて自分を練り上げていく修練が必要だと思う。

『心情倫理家は、純粋な心情の炎、たとえば社会秩序の不正に対する抗議の炎を絶やさないようにすることにだけ責任を感じる。』『(心情倫理家は)純粋な心情から発した行為の結果が悪ければ、その責任は行為者ではなく、世間の方に、他人の愚かさの方にあると考える。』『責任倫理家はこれに反して、人間の平均的な欠陥のあれこれを計算に入れる。つまり、人間の善性と完全性を前提してかかる権利はなく、自分の行為の結果が前もって予見できた以上、その責任を他人に転嫁することはできないと考える。これらの結果はたしかに自分の行為の責任だと、責任倫理家は言うであろう。』『(責任倫理家は)人は予見しうる結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為する。』

政治というものは、やはり結果に対する責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動すべきものであると私は考える。しかし現代の政治家の中でも心情倫理家の方々は大変多いようだ。

『政治にとって決定的な手段は暴力である。』『(政治家)すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものである。』『さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。』『悪魔の力は情け容赦のないものである。もし行為者にこれが見抜けないなら、その行為だけでなく、内面的には行為者自身の上にも、当人を無惨に滅ぼしてしまうような結果を招いてしまう。』

1918年の革命前後にドイツにおいて、民主主義的立場に立つ政治家としても華々しく活動した著者の誠に厳しい真実の言葉である。前回政治の目的は善=公益の追求にあると述べたが、公益の追求が特定の団体や個人にとって悪となることはありうることだ。その場合に悪魔と契約を結ばねばならない。しかしそれでもなお、公益を追求しなければならない場合がある。このことは現代においても生々しく深刻な問題であるだけに、「政治の実践者に対して特別な倫理的要求」がつきつけられる。

『政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。』

まったくその通りである。


『自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が−自分の立場からみて−どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。』

覚悟の次元である。政治は権力の追求であるが故に、悪魔と手を結ぶ。この悪魔を見抜けずに挫折していった政治家は数知れない。だからこそ政治家は、単なる信念や理想にとどまらず、真の「信仰」によって悪魔をコントロールしていくことが絶対に不可欠なのではないだろうか。

つづく

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