文化と芸術のコーナー

文化と芸術のコーナー(第6話)

「ビューティフルマインド」


連休の合間に久々に感動するとともに、知性を大いに喚起される映画を観た。この映画は現在上映中のもので、「ゲーム理論」により1994年にノーベル経済学賞を受賞したジョン・F・ナッシュの物語である。第二次世界大戦後まもなくの頃、主人公は今日の数学・経済学の基礎をなしている数々の定理を発見し、天才の名を欲しいままにしていたが、
三十代に入ってから精神分裂病(統合失調症)にとりつかれてしまう。それから三十年以上もの間、病との激しい格闘に及ぶが、夫婦の愛が困難に耐えてこれを乗り越え、ノーベル賞受賞という社会の評価も勝ち取るのである。しかし一番のメインテーマは夫婦の愛の成熟であろう。

私はまずこの「ゲーム理論」に大いに注目したい。これは150年間も定説とされていたアダム・スミスの「国富論」を覆す経済社会上の大発見である。映画の中では概ね次のように解説している。

アダム・スミスは個人が自分の利益を追求することが、「見えざる手」に導かれて社会全体の利益を最大にすると説いた。しかしナッシュはこれは誤りであって、自分の利益とともに、全体の利益を同時に考慮し追求することが正しいと説く。このことがある均衡点において個人の利益と全体の利益を最大にするという。現在この「ゲーム理論」は寡占産業の分析から金融政策のルール策定、オークションの仕組みの設計から国際紛争の分析まで幅広い応用の可能性を広げていると言われる。

この理論は私のように現実政治に携わっている者にとっては、実に様々なヒントを与えてくれる。たとえばこの理論が正しいとすれば、私益の追求を基本とする自由主義・市場主義だけでは、あるいは全体益の追求を命題とする国家主義や共産主義だけでも、個人の幸福と社会の繁栄を最大にすることはできないことになる。もちろんこの理論をいきなり社会全体に適用することは無理があるかもしれない。しかし家族や小グループ、会社のような組織を具体的に考えてみるとうなづけるところがある。

国会でも公共事業をめぐる贈収賄などが頻繁である。これは政治家とその支持者にとっては私益の追求なのであるが、他方で全体益・公益を損ねている。我々市会議員でも市民の要求は日常茶飯事であるが、それを100%追求し満足させようとすると他方で公益が成り立たないことがある。政治家はここを説得しなければならない。

さて映画の主人公はプリンストン大学院生の頃、「すべてを支配する真理、真に独創的なアイデアを見つけたい」というすさまじい知的欲望があった。このパワーは彼を成功させるのであるが、逆にとどまるところを知らなかったために主人公自身の精神を破壊してしまう。

長い闘病生活を経て奇跡の再生をもたらしたものは、直接的には若い学生たちに教えることで社会との接点を取り戻したことであり、本人が家族のためにも絶えず現れる幻覚と決別する強い意志を持ち続けたことである。しかし回復のためのより深い遠因は、精神錯乱状態の夫を支え続けた妻の無限大の愛−仏教で言う菩薩道−ではなかったか。

日本など先進諸国の経済政策には「新古典派理論」が反映されている部分も多いのだが、ただこの理論は「人間行動の戦略的な要素」を分析に取り込むことができないという問題点を抱えている。ナッシュの「ゲーム理論」はこの「戦略的要素」が、一貫性をもった数学的モデルによって分析可能になることを明らかにした。

私はこの「戦略的要素」の中に、環境、人権、文化などの価値観を取り込むとどうなるのかということに大変関心がある。アジアで初めてノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン博士は、「人々の行動は新古典派経済学が想定するように利己的な動機に支えられているのではなく、倫理的な思考や道徳的な価値にも動機づけられている」ことを指摘し、経済学と哲学の橋渡しをされている。私どもの政治の舵取りもこのような方向をめざすべきだと考えている。

第6話終わり


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