文化と芸術のコーナー
文化と芸術のコーナー(第3話)

幸福への道筋

吉田松陰の教育観


池田小学校の多数の児童殺傷事件は誠に痛ましい限りである。今日本ではこのように無軌道な残虐事件が相次いでいる。明らかに社会が歪んでいるとしか思えない。なぜこのようなことが起こるのであろうか。

『吉田松陰(山岡荘八著)』には、次のようにある。

「人間の欲望には限度がない。…この欲望との対決がある意味では人間練成の要になる。この要をはずして育ててゆくと、足るを知らず、恵むを知らないどんらんな獣性だけが伸ばされる。人間の社会は獣の社会であってはならない。足るを知らなければ満足はなく、満足することを知らなければ感謝の念の涌きようもない。そして感謝が無いということは、きわめてあらわに、その人間の不幸を決定づけるということだった。…言葉を変えて言えば、『足るを知らない人間は生涯幸福にはなり得ない』という厳しい答えに通じてゆく。」

戦後日本。バブルの発生と崩壊に至るまで、否、現在においても、欲望を刺激することばかりを経済政策と勘違いしているのではないだろうか。このような社会風潮が子どもの教育に影響を与えないはずはない。池田小の被疑者のような人間を生み出したのは、まずその親の責任であるが、社会全体の責任も無いとはいえない。松陰先生の教育観を通して、社会全体の運営方針を見直さなければならない。


それにしても、親の責任は大きい。(山岡)松陰先生も、「愛情を知らずに育った者は愛情に暗く、理性の圏外で育った者に理性は少ない。刺客や暗殺者や極端な暴力革命者はたいていその父母の愛も、主人の愛も知らずに育った者に多い。」とおっしゃっている。

松陰先生の偉大さは、そうした現実を凝視して、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞などの傑物だけでなく、当時の非行少年の教育まで引き受け、それぞれ真剣に、その個性にかなう助言を与えていったことであろう。

「相手を神の分身と見て、生活を共にしながらその中から相手の最上の才能をつかみ出してやろうとする、使命感に徹した魂と魂との対話なのだから、そこに時空を超えた結びつきが生れていっても、それは決して奇跡ではない。人間とはそうした真実によって集団をなすのでなければ、孤独に耐えかねて、やがて自らを傷つけ滅ぼす習性と、縁の切れない実在なのだ」。(同著)

このような観点からすると、人間の幸福への道筋は、まず第一に親のあり方、第二に教育者の資質にかかっていると言えよう。そして第三には、「足るを知る」社会の構築ということになろうか。

心の構造改革こそ
とは言うものの、人間幸福になるには忍耐と時間がかかる。しかし、不幸になるのは容易である。仏教ではまず次の五戒を守れなければ直ちにその人自身を不幸にすると説く。
一、不殺生戒(ふせっしょうかい〜殺生をせず)
二、不偸盗戒(ふちゅうとうかい〜盗みをせず)
三、不邪淫戒(ふじゃいんかい〜淫らな交わりをせず)
四、不妄語戒(ふもうごかい〜人をまどわす言葉をはかず)
五、不飲酒戒(ふおんじゅかい〜乱れる酒を飲まず)


これは基本中の基本であるが、大事な視点は欲望に振り回されるなということだ。日蓮大聖人は、「こころの師とはなるとも、こころを師とせざれ」と説かれている。つまり、縁にふれて様様に揺れ動く心をコントロールできる、確固とした主体としての生命境涯を築くことこそが、幸福への道筋なのである。

敗戦による貧困の中から見事に経済復興した日本は、バブル期を迎えて規律を失ってしまった。財政の悪化や不良債権問題のみならず、日本人の心の規律もすっかり緩んでしまったのではないだろうか。その時に身についた悪い癖からなかなか脱しきれないでいる。これらの悪癖を戒め、ひとりひとりが心の規律を取り戻した時には、必ず個人の生活においても、さらには社会全体にとっても幸福への道筋が見えてくるものと思われる。


中国の古典『貞観政要』には、治世の要諦として「身理まりて国乱るる者を聞かず」とある。すなわち、「君主が姿勢を正しているのに、国が乱れたということはいまだかつてありません」ということ。リーダーのあり方こそ最重要である。

小泉総理の構造改革が成るか成らぬかは、国会議員をはじめとした各界指導者層の心の構造改革にかかっているのではあるまいか。私も一層の精進に励みたい。

第3話終わり



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