文化と芸術のコーナー

第2話 山岡荘八著「徳川家康」(その1)

総理大臣の条件とは

世の中では小泉純一郎氏が新しく総理大臣になり、日本を変革してくれるのではないかという期待感が出ている。

小泉氏を歴史上の人物に例えると誰に似ているだろうか。余り見当たらないが、少なくとも徳川家康とは随分雰囲気は異なる。むしろ、高杉晋作か坂本竜馬タイプか。

山岡荘八「徳川家康」は、もう30年以上前の大ベストセラーで、今時古いよと言う向きもあるかもしれない。

しかし、政界はもとより各界でトップリーダーをめざす人は必読の教養書、否、指導者のための指南書であると言っても過言ではない。


この作品は、従軍作家として、太平洋戦争の悲惨を目の当たりにした山岡荘八氏が、昭和25年から昭和42年まで18年の歳月をかけて著した大作である。氏が、徳川家康に仮託して描こうとしたテーマは、「万人の求めてやまない平和の条件とは何かであり、またその平和を妨げているものの正体を突きとめ、それを人間の世界から駆逐し得るか否か」であった。

さらに私が驚いたのは、次の一文である。 「戦いのない世界を作るためにはまず文明が改められなくてはならず、文明が改められるには、その背骨となるべき哲学の誕生がなければならない。新しい哲学によって人間革命がなしとげられ、その革命された人間によって社会や政治や経済が、改められたときにはじめて原子科学は『平和』な次代の人類の文化財に変わってゆく」(昭和28・9・28)

戦後昭和28年の時点で「人間革命」という言葉を使用している山岡荘八氏に、私は不思議な縁を感じるのだ。

現代日本では皆平和は当然と思い、むしろ経済構造改革に眼が向いているが、しかし、世界の情勢は決して甘くない。政治家とくに一国の総理ともなれば、平和の条件について深く考えねばならない。

集団的自衛権の行使の解釈や憲法9条の問題などは、歴史に対する敬虔な省察が不可欠であり、少々国際情勢が変化したくらいで軽軽に変更すべき問題ではないと思う。

さて、本書は織田信長、豊臣秀吉、石田三成、明智光秀、伊達正宗などの有名人はもとより、千利休、本阿弥光悦等の文化人、徳川家臣団や戦国の女性、町人、農民に至るまでオールキャストの壮大な歴史絵巻であり、まさに日本の「戦争と平和」である。

勝者と敗者との差はどこにあるのか。成功する者と失敗する者との決定的な違いは何か。勉強になる。

とりわけ本書の特徴は、会話の中の心理描写が見事で、私も立場によってこのように物の見方も変わるものかと唸らされたことがしばしばであった。山岡文学の慈愛と智恵が満載されており、様々な人生のケーススタディに学びながら、人間いかに生くべきかを考える哲学書でもある。

戦後受験勉強に勝ち抜いてきただけのエリートたち、あるいは自ら知識人と自惚れている人たちに欠けているものは何か、この小説を読むとよくわかる。現代日本のエリートの「賢くて賢足らず」が浮き彫りになる。これは私自身に対する自戒の念でもある。同時にこれからの指導者教育のあり方も見えてくるようだ。

家康が板倉勝重に語る次のようなせりふがある。

「徳はのう、わが身をつねって他人の痛さを知る人情に発するものじゃ。その人情をよく噛みくだいた生き方が徳になる。その徳が最初であって、法はいわばみんなの納得しあう申し合わせということじゃ。」

「その申し合わせを威信や強制で通さねばならなくなったときは悪政…悪政はやがて乱世に通ずる。よいかの、善政というものは、領民たちの納得に始まるものだ…それゆえ、大名の側から言えば説得力じゃ…説得力の裏にあるものは、その大名の生活の中に積み蓄められた徳…」

時代や体制が異なるとはいえ、21世紀のリーダーも沈思黙考すべき言葉ではないだろうか。このあたりに公明党の議員の存在意義と使命があるように思う。「徳」は日本の総理大臣に求められる重要な資質である。

これに対して、現代のリーダーに求められる条件とは、変革の信念であり情熱であるという考えもある。私も全くその通りだと思う。ただ、それを実現するためには、なおさら家康の言う「徳」が必要ではないだろうか。小泉総理の徹底した改革断行内閣が成功するかどうかも、総理の「徳」にかかっているような気がする。


改革には痛みが伴う。この痛みを肌身で切に感じながら、それでもなお断行しなければならない説得力をもてるか。また国民がそれに納得するかどうか。我々政治家は謙虚に日々の精進を点検しなければならない。

第2話終わり



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