政治の焦点

政治の焦点(第9話)

イスラム教から考える

「日本人のための宗教原論」小室直樹著

9.11に米国で起きた同時多発テロ事件は、ますます混迷の度を深めている。私はこの問題を解決するには、まずイスラム教とは何か、から学び直す必要があると思う。そこで小室直樹先生の上記テキストをひも解いてみた。まず小室先生の説を紹介し、その後私の見解を述べてみたい。

イスラム教とユダヤ教・キリスト教はどこが違うのか

小室先生は大要次のようにおっしゃっている。「キリスト教では、イエス・キリストは神であると同時に完全な人間である。しかし、イスラム教では、イエスは単なる人にすぎない。ただ優れた預言者にすぎない。マホメットもただの人間ではあるが、最も優れた最後の預言者である。そして神=アラーはただ一人に決まっている。」

「アダムとイブが禁断の果実を食べ、エデンの園を追われる『旧約聖書』の記述は、人間の原罪に及ぶ重要なシーンである。それは、ユダヤ教、キリスト教ばかりでなく、『コーラン』にも記述がある。しかし、ユダヤ教では、ユダヤの神エホバにより、人間は楽園から追放されっぱなしである。キリスト教では、イエスが原罪を担いたもうて、人々のために死にたもうた。そのおかげで、人々は救われた。ところがイスラム教では神アラーは、追放を申し渡した後思い直して、『コーラン』の啓示に従えば怖い目、悲しい目には遭わせないぞ、と声をかけている。」すなわち、コーランに書いてあるとおりによいことをすれば、来世で天国に行けるというのである。

さて「イスラム教では、神アラーのための戦いを聖戦(ジハード)という。これは異教徒との戦いを指しているが、この聖戦で死んだ者は死んだことにならない。聖戦で倒れた者は、すでに生きて天国に入ることができる。これなら、戦闘にあたり、現世の死など恐れるに足らぬ。」

「キリスト教は十字軍を繰り出し、イスラムに戦争を仕掛けた。キリスト教には戦争に関する教義など何もない。あるのは、イエスを神と認めない異教徒は人間でないから殺してもよい、という根拠だけである(旧約聖書ヨシュア記)。異教徒皆殺し、掠奪はやり放題で、十字軍のみならず大航海時代における先住民征服も同じ行動原理であった。」

「ところがイスラムには聖戦という教義があり、戦死すれば最後に天国が待っているし、しかもその天国では、最高の毎日が待っていると書いてあるのだ。いかに強力な軍隊になりうるか想像ができよう。」

しかし大事なことは次の点だ。「『コーラン』には、「騒擾がすっかりなくなるまで戦い抜け、しかし向こうがやめたなら汝らも害意を捨てねばならぬぞ」とも書かれており、イスラム側から好戦的態度をとることに抑制をかけているのだ。」

問題解決のヒント

今回のテロリストたちには、イスラエル(ユダヤ)・アメリカ連合に対する敵意があることは確かであり、アメリカに対する聖戦と言いたいのかもしれない。アメリカとしては、パレスチナの直接の当事者を超えて、一般市民を無差別・大量に虐殺されたのだから、反撃するのは当然と言わねばならない。

しかし空爆もこれ以上の効果が期待できないし、逆に炭そ菌など新たなバイオテロが仕掛けられているようにも思われる。このままでは、アメリカは目に見えない卑怯な敵にかき回され続け、世界経済にも深刻な打撃となるだろう。何故ならタリバンは聖戦のために死ぬことを全く恐れていないし、この世で死んでも素晴らしい天国が待っているのだから。旧ソ連邦が退却したのもうなづける。

そうすると、上述のイスラム教のコーランに照らしてみて、国連など第三者の仲介による停戦とタリバンとの交渉という、新たな段階に入ることが必要な時期に来ているのではないか。コーランには「向こうがやめたなら汝らも害意を捨てねばならぬぞ」とあるからである。ブッシュ大統領は当初タリバンとの交渉の余地はないと言っていたが、方針変更すべきである。

今回の事件で明らかなことは、アメリカの言う「自由と民主主義」にも宗教上の限界があったということだろう。ユダヤ教・キリスト教の論理だけではなく、イスラム教をはじめ、世界の他の宗教や文明に対する謙虚な姿勢が求められている。

また実は「イスラム教は他宗教に極めて寛大なのである。イスラム教を最高としたうえで、人々は自分の信じるものに従って、どの宗教を信じてもよいと他宗教の信仰も認めている。」(前著) したがって、困難を極めるかもしれないが、アメリカの努力によりパレスチナにおけるイスラエルの自制と、アフガニスタンへの武力行使の停止がまず必要であると考えるものである。

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