哲学に学ぶ(第1回)


私は政治をより良くするためには、哲学の世界から根本的に政治を捉え直す必要があると考えています。そこで今回から少しずつ主に西洋哲学を学んでいきたいと思います。久々にソクラテス、プラトン、カント、ヘーゲル、マルクス、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ハイデガー、そしてポスト・モダニズムではデリダやドゥルーズ、ボードリヤールなどの哲学を勉強し直しました。もとより浅学非才の身。これらの大哲学者の著作を原書で読んで理解することは到底不可能ですので、日本の専門家の方々の解説を紹介しながら、私なりのエッセーを綴っていくこととします。

哲学は個人の生き方を考える上で極めて重要であると同時に、社会の様々な問題を解決していくためにも役立つものであると思います。しかし哲学の英知をそのまま実践できる人は稀にしかなく、実践によって多くの人を幸福に導くのは、哲学的英知を内包した宗教にあると考えます。今回痛感したことは、西洋哲学の重要なエッセンスは私どもの実践する仏教に既に内包されていることでした。それはともかく、まず何と言っても「カント」先生から紐解いてみます。

 「カント」


哲学者の竹田青嗣氏は「自分を知るための哲学入門」の中で、カントについて次のように述べています。

 『カントの行った理性の「批判」、哲学の「批判」の功績は世界の全体について完全な答えを見出すこと、それを一元論的に言い尽くすことは、言葉(理性)の本性から言ってもともと不可能だ、ということを証明したことに尽きる。』




「純粋理性批判」の要点であると思われます。意外にもこのことは西洋哲学の欠点を正確に言い当てています。マルクスは当時の資本主義の勃興とそれにより虐げられている民衆の姿を通して、世界を一元的に規定し歴史的必然としての暴力革命と共産主義社会の実現を予言しました。しかし世界の共産党による壮大な社会実験の結果、これは完全に失敗し、多くの人々を不幸に導いたことは歴史的事実です。マルクスはカントの「純粋理性批判」を理解していなかったと言えます。もっとも歴史的責任をマルクス一人に負わせるのは酷であり、むしろレーニンをはじめとする共産党指導者にこそ大きな責任があり、かつカントの思想の勉強不足を指摘できるかもしれません。


つづく

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