哲学に学ぶ(第2回)


絶対者(神)は存在するか。

 これは西洋哲学の難問ですが、このことは現代の英知をもっても判断不可能です。私はこのような問いを立てる事自体には意味がないと考えています。確かに人生には悲劇や矛盾がたくさんあり、われわれの人生や社会が神のような絶対者にすべて司られているなどという説明に納得してしまうことはあり得ることですが、これでは人生は決定済みということになり、人間の生きる意欲がでてきません。中世までの西洋・東洋の多くの宗教はこのような物語を創造してきました。しかし近代以降の哲学と科学はこれに異議を唱えてきたわけです。


絶対の歴史法則は存在するのか。

 ニーチェが「神は死んだ」と言ったことは有名ですが、神が不在の人間の社会に絶対の歴史法則があると叫んだのはマルクスということになるでしょう。マルクスはキリスト教と教会を否定しながら、しかし実は別の絶対者(歴史法則と共産党)を生み出してしまったのではないでしょうか。これも人間社会の決定論である訳です。資本主義社会は暴力革命によって止揚され、必ずや共産主義社会が実現するというものです。その場合人々は絶対者としての共産党の言う事に従わなければならないのです。

 しかし歴史はマルクスの予言通りにはならなかった。人間には自由があるからです。マルクスが想像した以上に人間は自由に考え行動したということです。政治との関連ではこのことが重大な問題です。日本でも未だにこの共産主義絶対思想を信奉している政党がありますが、この思想を哲学すればいかに人間の自由というものを否定しているかが明白です。


人間の実存

 政治思想上重要なことは、絶対者(神や共産主義思想)から発想することではなく、むしろ一人一人の人間がかけがえの無い人生をいかにより良く生きるかという実存の視点ではないでしょうか。個別の人生はその自由意志によっていかようにも変えられるし、社会も人々の話し合いによって変革できるという思想こそが最も大切です。たとえどんなにひどい人生に見える場合であっても、その人生を体験するのは当該個人です。世間が体験するのではないのです。その意味では世間の価値観にしばられて不幸な評価をする必要はないのです。もちろん物理的に変えられないハンディキャップはあります。しかしそれをプラスに転じるかどうかは、その人自身の人生に対する覚悟と決意によると思うのです。次回から「現象学」というフッサールの哲学を手がかりにしながら、実存という観点から政治を考えてみることにします。


つづく

BACKHOME