文化と芸術のコーナー


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〜アダム・スミス「道徳感情論」

堂目卓生著「アダム・スミス(中公新書)」(以下 中公)を手引きとして、アダム・スミスの「道徳感情論(岩波文庫 水田 洋訳)」(以下 岩波)を紐解いてみた。アダム・スミスと言えば「国富論」が有名であるが、その基礎に同著があることは専門家以外ではあまり知られていない。堂目教授の誘導が見事であり、私の中では人間の本性に関する考察では、マルクスよりもアダム・スミスの方が偉大な思想家であるとの確信をもったくらいだ。経済といえども所詮人間が行うものであるから、深い人間洞察を抜きにして、いくら高邁な理論を構築しても、現実から遊離したものになりかねない。また、これまで合理的な人間を前提として、様々な経済学者がイデオロギーや理論を展開してきたけれども、21世紀に入ってからようやく人間の感情や慣習の影響を考慮する行動経済学が注目されているのが不思議に思える。
 


同著の中でも私が注目したのは、アダム・スミスの幸福論である。「幸福は平静と享受(enjoyment)にある。平静なしには享受はありえないし、完全な平静があるところには、どんなものごとでも、それを楽しむことができないことは、めったにないのである。」(岩波 上 p432)。また、「健康で負債がなく、良心にやましいところのない人の幸福にたいして、なにをつけ加えることができようか。この境遇にある人にたいしては、財産の追加は余計なものだというべきだろう。」(岩波 上 p116)。

万人に共通する幸福の本質を見事に射ていると言わねばならない。堂目教授は、「この文章は、健康を維持し、負債を作る必要がなく、良心の呵責を感じるような行為(すなわち犯罪)をしなくてもよい程度には収入が必要であると読むことができる。」(中公 p80)と指摘している。政治を司る立場からはこの指摘は特に重要だ。国民の健康維持・増進のための医療・保健衛生、すべての国民が食べていくことができる経済・再分配政策、違法・不正を許さない透明性の高い社会の構築の三つが、政治の三大目標と言えるかもしれない。

さらに私が感銘したのはスミスの次のくだりだ。「貪欲は、貧困と富裕のちがいを過大評価し、野心は、私的な地位と公的な地位のちがいを、虚栄は、無名と広範な名声のちがいを、過大評価する。それらの誇張的な情念のうちのどれかの影響下にある人物は、かれのじっさいの境遇において悲惨であるだけでなく、しばしば、かれがそのように愚かにも感嘆する境遇に到達するために、社会の平和を乱そうという気持ちになる。」(岩波 上p433)。「虚栄と優越というつまらぬ快楽をのぞけば、もっとも高い地位が提供しうるほかのあらゆる快楽は、もっともささやかな地位においてさえ、そこに人身の自由さえあれば、われわれが見出しうるものなのである。」「圧倒的大部分の人びとの非運は、いつかれらがいい状態にあったか、いつがかれらにとって静坐し満足していることが適切なときであったかを、かれらが知らなかったことから生じたものだということを知るだろう。」(岩波 上p434-435)。

これに対する堂目教授の解説がすばらしい。「個人が富や地位を求めることによって社会は繁栄する。しかし、富や地位は、手近にある幸福の手段を犠牲にしてまで追求される価値はない。私たちは、社会的成功の大志を抱きつつも、自分の心の平静にとって本当は何があれば足りるのかを心の奥庭で知っていなければならない。諸個人の間に配分される幸運と不運は、人間の力の及ぶ事柄ではない。私たちは、受けるに値しない幸運と受けるに値しない不運を受け取るしかない存在なのだ。そうであるならば、私たちは、幸運の中で傲慢になることなく、また不運の中で絶望することなく、自分を平静な状態に引き戻してくれる強さが自分の中にあることを信じて生きていかなければならない。私は、スミスが到達したこのような境地こそ、現代の私たちひとりひとりに遺された最も貴重な財産であると思う。」(中公 p284-285)と述べている。

アダム・スミスと言えば、「見えざる手」で有名であり、自由放任主義、規制緩和論、市場経済の元祖のように思われがちだが、それは一面を切り取ったものに過ぎない。彼は1752年にグラスゴー大学の道徳哲学の教授に就任した。「道徳感情論」は、社会秩序(正義)を導く人間本性は何かを明らかにすることを目的としている。他方、「国富論」は、繁栄(豊かさ)を導く一般原理を明らかにしている。最近の研究では、前者は後者の思想的基礎と解釈されている。その意味でも「道徳感情論」には、21世紀に生きる現代人が深く味わい考えるべき内容が含まれていると思う。


つづく

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