文化と芸術のコーナー


文化と芸術のコーナー(第11話)

〜再読 吉川英治「三国志」

久方ぶりに吉川英治の「三国志」を再読してみた。八巻約四千ページにも及ぶ全編が虚々実々の駆け引きと戦いの連続で、人間の首をどんどん切ってゆくのには少々疲れたが、しかし改めて古代中国史の治乱興亡の大管弦楽に、学ぶところは大きいものがあった。確かに吉川「三国志」は、相当のフィクションが織り込まれているので必ずしも事実ではない。しかしそこに人間の器とは何か、指導者とそれを支える人々との心理など、人間存在の本質について考えさせられる。

軍師としての孔明は、一般には神算鬼謀の戦術家と思われているが、しかし実際の彼は合理的で大局観のある大政治家というべきであったようだ。まず有名な赤壁の会戦は、曹操率いる大国「魏」が孫権の「呉」の国とともに、玄徳軍を壊滅させようと目論んだ時、逆に軍師孔明が三寸不爛の舌をもって「呉」の孫権を説き伏せ、「魏」と「呉」を戦わせることに成功し、その智謀によって曹操軍を大敗に追い込んだものだ。これにより、これまで逆境また逆境だった玄徳は、ようやく「蜀」の国を得て自ら漢中王を称え、内政拡充に努めることができるのである。ところがその後、宿敵であったはずの曹操と孫権とが外交工作によって「魏」・「呉」友好を結んだことから、情勢は一変、ついに関羽の死と荊州の喪失という窮地に追い込まれる。しかし、ここで孔明は再び「蜀」・「呉」同盟を結び、「魏」に侵攻するという大戦略を用意する。その上で漢室の復興とその為の「魏」打倒の決意を披瀝した、いわゆる二度にわたる「出師表」を玄徳の遺児劉禅に捧呈し、「魏」の智将、司馬仲達との五丈原の決戦へと進んでゆくのである。


孔明は、相手の将軍の人物・力量、地理・地勢、天文・気象等々相当の情報を手に入れた後に、敵・味方の心理を読み尽くして戦いに望むので、当然勝率は高くなる。敵の謀略をよく見抜き、それを逆手にとって大勝利することもある。もちろん幾つかの失敗も描かれており、その時の孔明の対処がまたおもしろい。反省をしながらも、あわてず冷静に相手の弱点を突いていく。そこから窮地を脱し逆転をしていくのは学ぶべき点である。また、局地戦でよく使われている手が偽計である。特に最初わざと負けて相手をこちらの懐深く誘い込み、取り囲んで殲滅するというやり方である。さらに対敵国内流言策という諜報活動なども活発であったようだ。

「三国志」の戦いの基本的な論理や発想は現代の政治においても通じる。たとえば、米国・日本・中国の三国は最近は戦争こそしていないが、その駆け引きはまさに三国志の時代と言えるのではないか。また、先ごろ政府の在日米軍の基地再編案が話題になったが、日本は世界一の超大国米国と同盟を結ぶのは当然だが、果たしてそれだけで良いのか。新中国ともうまくやらねばならないことは明白だ。国内においても二大政党の時代などと言われているが、果たしてそうだろうか。むしろ自民・公明・民主の三党鼎立の時代なのではあるまいか。ライブドア事件に関する国会のメール騒動は、まさに偽計によって民主党が壊滅的な打撃を被った事例と言えるだろう。

吉川英治氏の孔明評は私には新しい発見であった。氏は「(彼は)孔孟の学問を基本としていたことはうかがわれるが、その真面目はむしろ忠誠一図な平凡人というところにあった。」「彼がいかに平凡を愛したかは、その簡素な生活にも見ることができる。」「兵を用いるや神算鬼謀、敵をあざむくや表裏不測でありながら、軍を離れて、その人間を観るときは、実に、愚ともいえるほど正直な道をまっすぐに歩いた人であった。」
「彼の真の知己は、無名の民衆にあった。」(吉川英治『三国志』)と述べている。

たとえば、孔明は玄徳の子の劉禅に対して「わたしは都に桑八百株と田畑十五頃をもっており、家族の衣食はこれで足りております。わたしの身の回りの衣食はすべて官から支給されていますので、特に私財を蓄える必要がありません。」(同著)と上奏している。

また、「彼が軍を移動すると、かならず兵舎の構築とともに、付近の空閑地に蕪(かぶ)の種を蒔かせた」「この蕪は春夏秋冬、いつでも生育するし、土壌をえらばない特質もある。その根から茎や葉まで生でも煮ても食べられるという利点があるので、兵の軍糧副食物としては絶好の物だったらしい。」「とかく青い物の栄養に欠けがちな陣中食に、この蕪はずいぶん大きな戦力となったにちがいない。」「こういう細かい点にも気のつくような人は、いわゆる豪快英偉な人物の頭脳では求められない」「正直律儀な人にして初めて思い至る所である。」(同著)と述べているのである。

日本では政治家や経営者の手本とされてきたのは、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの英雄であるが、孔明のような人物はまず思い浮かばない。私は21世紀の世界の指導者のモデルは、意外にも諸葛孔明のような「偉大なる平凡人」かもしれないと思うのである。私心なき心、常に民衆の生活とともにあり、多趣味な風流子でありながら、「国を憂いて痩躯を削り、その赤心も病み煩うばかり日々夜々の戦いに苦闘しつつあった古人」(同著)に、後世の人々は久しく敬愛するのであろう。


つづく

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