平成17年3月市長総括質疑 〜「ゆとり教育と総合学習について」


1.「ゆとり教育と総合学習について」

(竹内)

  私の全く個人的見解であるが、文部科学省の方針には賛成しかねる政策がある。「かつての共通一次試験、現在のセンター試験」、また「学校五日制」、そして昨今話題になった「ゆとり教育」などについて、私は多少なりとも疑念をもっている。まず「共通一時試験、センター試験」は偏差値主義を蔓延させ、一面的な大学の序列付けを招くとともに、受験生には二重の負担を強いている。また「学校五日制」は必然的に授業時間減少となり、学校現場では教師も生徒もゆとり不足に陥っている。「ゆとり教育」は、狙いは「生きる力」「考える力」の涵養であるが、現実には多くの国民が学力低下を心配している。

 しかし、京都市の学習指導では、「ゆとり教育」と言わずに「生きる力」を強調していることは高く評価したい。私は「生きる力」には四つの条件があると思う。それは「基礎学力・技能」、「考える力」、「人間関係力 ( 道徳を含む ) 」、「体力」である。

 ある調査によると、最近の京大や東大の学生の学力は二極化していると言われている。確かに一部の優秀な学生は昔と変わらないが、しかし多くの学生の学力低下は間違いないらしい。ある東大教授は「文系の学生でさえ論理的な文章を書けない者がめだって増えてきた。理系では数学や物理の基礎学力の疑わしい新入生も珍しくない」と述べている。またある京大教授は「特に『考える力』が足りない。高校までの勉強と違って世の中では答えの解らないことや答えそのものの無い現象は多々ある。これらをどう考えるかが大事なのだ。」と指摘している。だから京大や東大にたくさん合格させたからと言って単純に嬉しがっているだけでは駄目だ。新指導要領となった最初の高校生が受験する 2006 年度大学入試では、このままでは 30% は得点が低下するだろうと囁かれている。

 さて、 80 年代以降多発した校内暴力、いじめ、不登校の増加などから、その原因としてやり玉にあげられたのが、「詰め込み教育」や「知識偏重の教育」であった。「ゆとり教育」は、その対応策として文部省が打ち出したものだ。しかしこれは原因を的確に捉えていないと思う。むしろ社会構造や経済状況の変化など複雑な要因が絡み合っていると見るべきだ。

 そこで文部科学省は平成 10 年から「総合学習」を持ち出してきて、知識偏重・詰め込み教育ではなくて、「学ぶ意欲」や「考える力」の育成しようとした。このこと自体は評価されるべきであるが、ところが、これが現場に降りると全く違った現実があるのではないだろうか。

 ここで紹介しておきたい興味深いデータがある。小学校の六年間の授業時間数である。 70 年代までは主要四教科で 3,941 時間が確保されていた。ところが、 2002 年の新指導要領では、 2,941 時間と何と 1,000 時間も削減されている。また中学校の一年間の授業時間は、 2002 年では 816 時間であり、オーストラリア 1,073 時間、フランス 986 時間、アメリカ 980 時間、イギリス 945 時間、ドイツ 921 時間と比べても大幅に少ないことが判る。これでは学力の国際比較テストで日本の生徒の得点が低下しているのも当然だ。このままで世界の中の日本の将来は大丈夫かと、不安になる人は私一人ではないはずだ。

 ひとつは小中学校では、まず教科の理解が不十分のまま「総合学習」に入っていないだろうか。理解不十分であればテストの点数が悪い。それでは学校が面白い訳がない。教科理解のための時間確保と工夫がまず前提条件だ。基礎学力なくして学習意欲がわくはずがない。基礎学力なくして「考える力」が付くわけがない。河合隻雄文化庁長官も「ゆとり」が「たるみ」になってはいけないと指摘されている。

 小中学校では、まず基礎学力と人間関係力 ( 道徳 ) 、体力ではないのか。ここを本末転倒していないか心配する。基礎学力が不足している場合には、「総合学習」の時間を減らしてでも、基礎学力の補充に努めるべきである。また、私は各教科理解の中で、単に知識を覚えるだけではなくて「なぜそうなるのか」の理屈を「考える学習」が必要であると思っている。また理屈から新しい現象を推測させていく指導が大切だ。さらに、各教科と社会との関係、これを学ぶことが社会の中でどのように役立っているのかなども、学習意欲のためには有効な手立てだろう。小中学校では「総合学習」は各教科の充実という観点から工夫をし、うまく使うべきではないかと思う。

 しかし、高校に入れば事情は異なる。学問を、人生を、社会を「考える力」を身につけなければならない。その意味では「総合学習」の必要性は高まると思われる。特に進学率の高い高校では、他の高校との偏差値比べばかりやってないで、むしろ「総合学習」の時間を利用して「将来の各分野におけるリーダー候補としての道徳」をしっかりと教える必要があるのではないだろうか。自分の栄誉・栄達のためだけの学問ではなくて、「社会のために奉仕する道徳」を学ぶ必要があると思う。どのような人材を輩出したかで学校の品格が決まる。学校の魂の部分を形作るためにも、「総合学習」を用いるべきではないか。

 これらの点について桝本市長のご見解を承りたい。

(桝本京都市長)

( 要旨 ) 大変難しい問題であるが、教育はたくましく、思いやりのある生きる力を持った人間を育てることだと思っている。そのためにはまず基礎学力が大事だ。もちろん勉強が大嫌いという子どももいる。しかし、それでも最低限のことは厳しく教え込まないといけない。教育には厳しさや鍛錬といった要素も不可欠である。また最近の先生は子どもの友達のような教師が多いが、もっと人間として尊敬され、威厳のある指導力が必要ではないかと感じている。

(竹内)

 一部の学校では確かに学力向上の事例も現れているようだが、しかしそれは特殊な例であって、全般的には「学力は低下していない。学力は向上した。」とは簡単には言えないだろう。日本の中の比較だけではなく、国際的な標準からものを見るべきで、日本で幸せにやっていてもいつの間にか気がついたら、世界に遅れをとり日本にはろくな仕事がないという事態もありうる。

     もっと大胆に例えば「学校五日制を返上する教育特区」を創設して授業時間を確保するなど、子どものためには厳しい教育改革を推進することも強く要望しておきたい。                           

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