政治の焦点

政治の焦点(第20話)

衆議院選挙の意義(その2)


今回は私の体験に基づいた菅・小沢論について述べてみたい。1993年の衆議院選挙に私が初当選した当時、このお二人は圧倒的な世論の支持を受けて成立した細川政権の中枢として活躍されていた。しかし同政権はわずか8ヶ月で崩壊。この原因について菅氏は11月号の中央公論で、@「政治改革実現後の行財政改革や地方分権、年金・医療制度などの改革をどう進めていくかという青写真をもっていなかった」。A「これまで行政を実質的に動かしてきた霞ヶ関の官僚との関係を変えられなかったこと」、つまり官僚主導だったからと述べている。この故に新民主党は脱官僚を掲げている。

しかし本当にそうだろうか。よく考えてみると崩壊の本質的原因はもう少し別のところにある。当時から小沢氏は与党の中心人物であったし、今日の改革ビジョンも既にお持ちの立派な政治家であった。各政党ともそれぞれに改革論はあった。むしろ崩壊の本質的原因は、改革の青写真がなかったことではなく、政権与党としての一致した見解を欠いていたこと、すなわち与党としてはバラバラであったことにある。自民党以上にまとまりがなかったのだ。
 政党の合併と連立政権とは根本的に異なる。連立政権は異なる政党が一定の期間に一定の政策目標を達成することで合意して成立するもので、一種の契約のようなものだ。しかし政党の合併には、基本的に理念や政策の合致がなければならない。新民主党はここに不信感がある。たとえば新民主党は特に安全保障に関する理念・政策ではバラバラだ。同党には非武装中立論者から核武装論者までいて、ある民主党幹部が「愛する二人の結婚か、それとも偽装結婚か」(京都新聞9/25)と漏らしているくらいだ。同様のケースは新進党の設立と解党で実験済みである。新民主党にはマニフェスト以前の基本理念が180度違っている人がいる。

ガラス細工のような連立政権のまさに綱渡り的な運営の中で、あの細川総理の深夜の国民福祉税構想の発表があった。その時をきっかけとして細川連立政権の潮目が変わる。その後の連立与党間のゴタゴタが原因となって世論の風当たりが強くなると、さっさと連立与党から抜け出していったのは菅氏が属していたグループ「さきがけ」ではなかったのか。私の目には「さきがけ」は旗色が悪くなると逃げ出したように見えた。ここにもう一つの細川政権崩壊の原因がある。今頃になって責任政党などと言うのなら、むしろ当時細川総理や羽田総理を助けて連立与党の最低限の政策綱領をまとめ上げるべきだったのだ。その後社会党が自民党に総理の椅子を譲られて、自民党・社会党・さきがけのいわゆる「自・社・さ」政権を作ったことを思い出して欲しい。その時小沢氏の手法や理念政策を最も強く批判していたのは、社会党であり、さきがけの人たちであった。当時の社会党やさきがけの議員達が、今回は小沢氏と手を組むという。私にはこういう新民主党は信用できない。なぜなら政権政党としての責任感が欠如しているからだ。政権を担う与党にはマスコミなどから批判される政策も大局的にはやり抜かねばならないこともある。ところが攻撃は強いが批判には弱く、風向きが悪くなると逃げ出すような人々には到底政権は担えないと思われる。

もうひとつの新民主党の指摘である「脱官僚」について考えてみたい。彼らは官僚に政策丸投げの自民党では絶対に改革はできないと言っている。しかし、これもおかしい。たとえばあの中曽根政権の時は実は自民党単独政権時代であり、今よりも政官財の癒着が指摘されていた。それでも弱小内閣といわれた当時の中曽根内閣は、国鉄の民営化や電電公社の民営化など歴史に残る大改革をやり遂げている。つまり要は人間の知恵と政治力によって全ては決まるということだ。官僚を使いこなす力量を政党や政治家がもたなければならないのだ。官僚を手足として自由に動かせる頭脳に政党・政治家はならなければならない。私は「脱官僚」は政治の争点にはならないと考える。

むしろ政党や政治家の目的や価値観が問われるべきだろう。自分のための政治か、それとも国民のための政治か。私の政治の目的はできるだけ多くの国民の幸福が増大することだ。幸福というと主観的なもので政治が立ち入るべきではないという人もあるが、私は幸福にもある程度客観性はあり、それは常識的に判断していけばよいと思う。小沢氏は国民の幸福については何も触れていない。大衆を向いているのか、知識人を相手にしているのかわからない。統治のための国家論については優れていると思うが、残念ながら人間論が不足している。菅氏は「最小不幸社会」と言っているがこれは消極的な政治理念だと思う。社会主義思想に近いのではないか。私は政治の使命は、国民ひとり一人の幸福を大切にしながら、リーダーシップをとって社会全体の価値創造を成し遂げていくことにあると考えている。もちろん悪しき大衆迎合であってはならないことは言うまでもない。


さて、京都では反権力という人が多く、共産党に共感する人がこれまで多かった。しかし共産党の虚構性がだんだんと人々にもわかるようになってきた。ひとつは、北朝鮮による拉致事件の解決に、日本共産党がいかに後ろ向きであったかということが明らかになったことである。これはフジテレビの拉致事件ドラマでも有名になった。また共産党の筆坂参議院議員のセクハラ事件だ。他人の失敗には厳しいのに、身内の問題には一切ふたをしたまま。また昨年から大問題となった共産党系の京都民医連病院の手抜き検査事件だ。庶民の味方といいながらその実態はひどい。これも医療に対する信用を失墜させた。さらに消費税問題では同党はもともと廃止論だったはずだ。それがいつの間にか引き下げ論になり、衆参選挙のたびに公約してきたが、それは一向に実現していない。無責任な批判は誰でもできる。


終わり

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