私の政治信条

洛星は進学校で有名だが、野球部は創部当初から強く、私も中学・高校時代ともに、京都府大会ではベスト8進出を果たした。その後、後輩たちがさらに勝ち進み甲子園一歩手前まで行ったことも何度かある。私は小柄だが、左打ちで、打順は一・二番、思い切りの良いバッティングで意外にロングヒッターだった。また左投げで、守備は左翼手(レフト)、ボール感が良く足が速くて守備範囲が非常に広かった。他方、病気やけがで肩を壊したり、勉学との両立に苦労したこともあった。それでも負けじ魂で高校3年まで6年間野球部をやり抜いたことは、人生の自信と財産となったように思う。特に先生方や諸先輩・同期・後輩との信頼と友情を結ぶことができたことの意義は大きい。

京大法学部在学中からの不思議な廻り合わせで三和銀行に入行した。約10年間勤務し、調査部や大規模プロジェクトの開発事業(特に千里国際学園の創立に深くかかわった)、銀行の店舗開発など、一般の銀行のイメージとは異なるユニークな仕事に多く携わり大変勉強になった。この銀行は早くから自由化に向けての戦略を掲げ収益重視で業績を伸ばし、東京三菱銀行とならんで格付けの高い銀行に成長したが、その後両行は合併し、三菱東京UFJ銀行として新出発をした。

平成5年に公明党からお誘いを頂き、私は銀行を退職して35歳で衆議院議員選挙に立候補した。それは苦渋の決断であった。しかし、保身よりも社会正義のために働きたいと勇気をふりしぼって飛び込んだ。初挑戦は無事当選し、39年振りの自民党からの政権交代が実現した。また大蔵委員会等に所属し、規制緩和や住専問題などで大いに論陣を張った。ところが社会の変動は著しく、小選挙区制への移行、細川連立政権の崩壊、野党新進党の結成、阪神大震災、オウム事件などが相次いだ。激越を極めた平成8年10月の初の小選挙区選挙は、残念ながら私の力不足と不徳の致すところにより敗北を喫した。

初めての落選は大変厳しいものであった。家族を抱えながら、復活をめざして必死に生き抜いた。この困難な時に多くの方より真心からのご支援を賜り、本当に有り難かった。そして私の魂を揺さぶる一冊の本と出合う。内村鑑三氏の著作「代表的日本人」である。そこに描かれた五人の代表的日本人の生き方は、私自身に猛省を促した。このことが2年半の浪人生活を経て、私が京都市会議員に転出する導火線になったのである。それでも七転八倒の苦しみの末の前進であった。日本の政治史上でも国会議員をやって市会議員になった人はほとんどいない。しかし政治家人生を続けるのであれば、あえて人間修行として一から出直さなければならないと覚悟を決めた。とは言うものの、軽蔑や批難も少なからぬあり、内なる葛藤とその障碍を乗り越える凄まじい戦いであった。

市会議員の選挙はある意味では、体力的にも精神的にも国会議員選挙よりもつらく厳しい。熱烈なご支援のおかげで2回当選させて頂いたが、2回とも選挙後は高熱を出して倒れ、なかなか熱が下がらないというひどい状態に陥った。しかし、6年と4ヶ月の間、市会議員として京都の路地の奥の奥まで歩き回り、多くの人々の話を聞き、語り、その切なる思いと暮らしの実態をつぶさに体で感じることができた。まさに地方の現場の真実をこの目で確かめてきた。市会議員時代は、政治家として誠に得がたい貴重な体験となったと感謝している。

平成17年夏、突如小泉総理による郵政解散・総選挙が行われ、私は比例区近畿ブロックの候補者として、9年ぶりに47歳で衆議院選に立候補させて頂いた。ところが、普通であれば党内5位である私まで当選圏であったのだが、あろうことか、小泉劇場の大旋風の前に圏外に押し出され2回目の落選となってしまった。さすがの私もがっくりと来た。なぜ2回も落選するのかと悔しく、天に怒り、宿命を恨んだ。しかし、ここで政治家を辞める訳にはいかない。ぎりぎりまで追い詰められた私は、すべての原因は自分にあると悟り、己の至らない点を徹底的に見つめ直し、自己改革に取り組む一大発心をした。

私は議員になることを目的として政治を志した訳ではない。善良な庶民・大衆が、平和で幸福に暮らせる社会を創るために、政治の道に進んだのである。議員であることは手段であって目的ではない。このことを深く胸に刻みたい。権力の魔性である悪や偽善に牛耳られることなく、ひとりの人を大切にすることを原点として、より良い日本の政治を構築するために覚悟の闘争を挑んでいく決意である。

つづく




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