再考「教育基本法改正」

いわゆる永田メール問題で民主党が自滅してしまったために、今国会で再び「教育基本法改正」問題が息を吹き返し成立の可能性が出てきたと言う。この法案の最大の争点はこれまでも述べているように、「愛国心」という表現を盛り込むかどうかである。自民党の論拠は、「戦後の日本は経済的・物質的幸福を優先しすぎたために、国民の道徳・倫理が崩壊してしまった。従って道徳・倫理を再構築するためには、教育基本法を改正して愛国心を育てなければならない」というものである。一見もっともらしいが、私は極めておかしな矛盾だらけの理屈であると思う。その理由を述べてみたい。

確かに戦後は経済優先の風潮が長く続いてきたし、教育においても知識の伝授が中心で道徳や倫理は隅に追いやられていた観も否定できないだろう。しかし、よく考えてみると戦後社会の中核を形成してきたのは、戦前の「愛国心」教育を受けてきた世代ではなかったのか。道徳・倫理の崩壊が事実とするならば、その主たる責任は今の青年世代ではなく、むしろ今の高齢者をはじめとする大人の世代にあることは間違いない。そうするとまず道徳・倫理教育を施さねばならないのは大人の世代ということになる。親の背中を見て子どもは育つものだ。今の子どもが道徳・倫理的に悪いとすれば、その親の世代の道徳・倫理こそ問われるべきであろう。

次に道徳・倫理とはそもそも何か。それは人間社会の善悪の基準を示すものである。その善悪の基準をどう考えるかが大事なのだが、学問の世界では大きくは次の二つに分類されている。ひとつは、幸福の実現が善であるという考え方。「いわば利益誘導的な考え方で、因果応報的な発想がそうであるが、それを現世レベルで考えると、いわゆる功利主義になる。善を行うから幸福になるというのを転換して、幸福に導くのが善だ」(『仏教vs倫理』末木文美士P90)ということになる。二つ目は、共同体的規範に善悪の基準を求める考え方である。日本の倫理学者和辻哲郎が主張している。

では、果たして「愛国心」が善悪の基準と言えるだろうか。善悪の基準を幸福の実現とする考え方をとったとしても、「愛国心」は人々や国を幸福に導くものであるとは言えない。だから恐らく自民党の諸君は「愛国心」を日本という国の共同体的規範としたいのであろう。国を愛する人が善で、国を愛することが出来ない人が悪であると。しかし現代日本では、この規範を誰も承認しないだろう。もしも仮にこのような規範を決めたところで、今日の青少年問題や世の中の道徳問題は全く解決できないことは明らかである。家族、学校、会社、ボランティア団体、趣味の会等々様々な社会関係において規範があり、それが時代と状況によって著しい変動を起こしているからこそ、多くの問題や事件が発生しているのである。こういう現実を無視して、「愛国心」という大きな規範で一括りにすれば問題が解決するかのように考えるのは、極めて雑駁で安易な発想ではないか。共同体の規範はそれぞれの現場で鍛え直さねばならない問題だ。
 

「愛国心」の弊害は、国家が目的となり人間がその手段化されることである。過剰な「愛国心」が戦争を起こし、国民を不幸のどん底に陥れたことは歴史の事実である。国家の目的のために、若い純朴な特攻隊員は自らの生命を手段として散っていったのである。さらに、自国の「愛国心」を大切にするのであれば、当然他国の「愛国心」をも尊重しなければならないだろう。では自国と他国の「愛国心」が衝突する場合はどうするのか。「愛国心」を超える国際共同体としての規範こそ求められているのではないのか。「愛国心」それ自体はもはや時代錯誤の規範であるといわれても仕方が無い。また世界中の人々を不幸に導いた悪の実績を有する故に善とはなり得ないのである。

それでは道徳・倫理の崩壊を防ぐためには何もしなくても良いのか、という疑問が投げかけられるかもしれない。私の個人的意見としては、教育基本法改正で強いて行いうるとすれば、人格の完成のためには、「自己のみならず他者の尊厳」、「自国のみならず他国の伝統や文化の尊重」、「生命を慈しみ、地球環境を守る」ことなどを謳うことは可能であると考える。科学技術がますます発展し、経済のグローバル化と情報の共有化が進んだ現代にあっては、国際共同体・地球レベルの規範や幸福を志向すべきであるからだ。

以 上



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