私の政治哲学(第8回)〜外交・安全保障における劇場型政治の危うさ

劇場型政治の創始者とも言うべき小泉総理の外交に、私は危うさを感じている。靖国神社参拝に端を発する中国・韓国などとの外交関係の悪化を懸念するのは私一人ではない。総理の言い分は次のようなものだろう。

すなわち、「靖国参拝は公約であり信念である。それは心の問題であり、それを外国からとやかく言われるのは筋違いである。ましてや二度と戦争はしないことを誓うために参拝しているのだから、咎められる理由はない。もちろん中国や韓国の方々の気持ちもわからないではない。だから参拝の仕方も随分と配慮している。もしも外国に言われて参拝を取りやめたのでは、思想信条を曲げたことになる。それは外国による思想信条の侵害であり、越権行為である」と。

確かに靖国参拝は個人の心の問題であり、それを止めさせることは誰にもできない。但しそれは純粋の個人の場合である。日本国の総理は国家の一機関であり、その行動は一個人のものとは見なされない。日本国憲法では20条3項に「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とあり、国家の宗教的中立、政教分離が定められている。だから高等裁判所レベルでは、総理の靖国参拝は違憲とする判決もあるくらいだ。

単に違憲の疑いがあるから参拝すべきであるというだけではない。太平洋戦争の反省に基づいて憲法20条が作られていることに思いを致すべきである。あの戦争は、国家権力が国民を総動員するために、宗教(国家神道)を利用したのではなかったか。国家神道を利用して他のあらゆる宗教を弾圧し、さらに国民の自由な言論を封殺したのである。これが戦争を導き、拡大させ、長期化し、止めることができなかった大きな原因である。戦後60年を経て戦争の記憶が風化しつつある今日、このことをよくよく考え直さねばならない。
 

今の若い人々からみると、中国や韓国から参拝を止めろと言われて総理大臣が中止することは屈辱に思えるかもしれない。私が国家の機関とみなされる主要な大臣が靖国参拝すべきでないと言うのは、単に中国や韓国が言うからではなくて、日本の歴史的省察に基づく内在的な思考の帰結であるからだ。それが結果として中国や韓国との信頼を再構築することにつながるのである。

小泉総理のような感情的な反発をしていると、国民のナショナリズム(民族意識)を誘発することが怖い。中国との間では、東シナ海のガス油田問題、韓国との間には竹島の領有問題などがあり、さらに北朝鮮による拉致問題は全く進展していない。対応を間違えると危険なことになる。これが嵩じてくると、憲法を改正して集団的自衛権の行使を可能にし、武力行使や武力による威嚇を認める雰囲気が醸成されかねない。このような情勢のもとで憲法が改正されるならば最悪の事態に陥る。

加えて、野党民主党の代表や一部幹部が米国の世界戦略に同調して、集団的自衛権の行使を認めるべきだとか、憲法9条改正を安易に口にしているのが心配だ。小泉総理は民主党との大連立まで頭の中にあるらしい。今のところ前者は単純な米国中心史観から、後者は権力闘争から言っているに過ぎないが、万一実現した時は国民にとって極めて不幸なことになる。

野党も改革を張り合うことは大いに結構なことだ。しかし、小泉総理の劇場型政治の二番煎じをしてはいけない。特に外交や安全保障の分野では、派手なパフォーマンス政治は国を過つ。何故大日本帝国は負けるに決まっている戦争に突入し、国を滅ぼしたか。戦前の国家経営者であった大臣や政治家、軍人達は何故失敗したのか。現代の政治家達はこのことを深く省みるべきである。

つづく。


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