私の政治哲学(第7回)〜2006年からの展望

政治において日本の前時代的遺物を破壊し、改革していこうとする小泉総理の手法には一定の評価はできる。経済も着実に良くなってきているように見える。しかし、結果として生まれたものは、「勝ち組と負け組」という言葉に象徴されるように、人間が手段化され、簡単に部品のように取り替えられ、切り捨てられていくような殺伐とした冷たい社会のような気がしてならない。そこに人々の不満が鬱積しているのである。

昨年の郵政解散で小泉自民党が大勝利した理由は、国民が民営化を理解したからではなく、「利権と縁故による旧い政治」を打破しようと叫ぶ小泉氏の姿が、不満を抱いた多くの国民の共感を呼んだに過ぎない。すなわち、若い人々を中心に厳しい生活を余儀なくされ、それまで選挙に行ったことのなかった人々が、明治以来の既得権益の上にあぐらをかいているように見えた郵政事業に怒りの矛先を向けたために、自民党が大勝したのである。

資本主義の勃興期にはもっと大掛かりに、労働者を使い捨てしていく時代が西洋にはあった。それをマルクスが資本論を書いて分析し、さらにレーニンや各国の科学的社会主義者と名乗る革命家達が共産主義国家を樹立した。しかし、壮大な社会実験を経て、結局は共産党の特権エリートが、多くの人民を搾取し支配する貧しい独裁体制を作り上げただけであることが明らかとなった。つまり、共産主義とは、共産党による国家支配が目的であって、労働者はいつまでもその手段に過ぎなかったである。

昨今のレーガン・サッチャー流の新自由主義的改革の流れでは、弱肉強食傾向が一層強まり、労働者が「手段化」されてしまう。しかしだからと言って、共産主義が正しいとはいえない。これは平等の名の下に、人々の自由な価値創造と意欲を圧殺し、もっとひどい人間の「手段化」を推し進め、「利権と縁故」による腐敗を増殖してしまうからだ。
 

このような自由と民主主義の進化の歴史的過程を踏まえた公明党の思想は、「人間そのものを目的とする社会」の構築である。これはカントの主張とほぼ軌を一にする。それは「一人ひとりの生命そのものが価値であり、その人間の可能性を最大限に追求していこうとする社会」の建設である。しかしそれは「自分中心ではなく、他人の生命を最大限に尊重していく社会」でもある。別の角度から言うと、絶対に戦争を防止していこうとする社会である。

象徴的な政策をより具体的に表わすならば、すべての子どもに基礎学力を身につけさせる教育、奨学金制度をはじめとする教育コストの低減、低廉でいつでも誰でも安心して受けられる医療・福祉制度、児童手当など手厚い子育て支援、女性が子育て後に職場復帰できる、能力に応じて格差が公正で適正な所得構造、福祉と経済の両立、集団的自衛権の行使はできないとする今の憲法解釈の変更はしない、憲法九条の改正には慎重である等である。

これらはいわゆる単なる「福祉国家」ではない。明治以来の政治と官僚機構の膨大なムダにメスを入れる大改革によって財源を生み出し、それによって教育と福祉を充実させる。このことが国民一人ひとりが参加して活躍できる社会の基盤となる。それが人間の潜在的能力を最大限に発揮させる社会の条件である。結果としてこのことが経済の好調という連鎖を生むのである。

現実にはなかなか難しい問題もあるが、現場を踏まえた生活者の視点から、自民党やそれとよく似た民主党では絶対にできない「人間のための国づくり」をしていきたい。

つづく。


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