東日本大震災レポート2
報告者:伊藤(秘書)

竹内事務所を代表し、ミニバンに無洗米を押し込み、宮城県南三陸町へ車を走らせた。志津川湾を右手に見ながら、南三陸町に入ると、数キロにも及ぶ見渡す限りの瓦礫地帯が広がっており、町全体が爆撃にあったような悲惨な状況が目に飛び込んできた。以前は、穏やかな暮らしがあったはずだ。一瞬にして多くの人々の幸せを飲み込み破壊した津波に強い憤りを感じ、その壮絶な光景に思わず涙がこぼれた。車を降りて、犠牲者のご冥福をお祈りし、黙祷した。

鉄骨や木材、コンクリートなどの瓦礫地帯が広がっていた=南三陸町

【写真】鉄骨や木材、コンクリートなどの瓦礫地帯が広がっていた=南三陸町

 南三陸町では、町民約1万8千人のうち約6630人が避難し、467人が死亡、約640人が行方不明となっている。また、住宅は約3880棟が全壊している。

 同町では、1960年のチリ地震津波を教訓に、町庁舎の隣に堅牢な鉄筋コンクリート3階建ての防災対策庁舎を整備していたが、13mの津波にあっけなく飲み込まれ、鉄筋がむき出しの状態となっており、津波の威力のすさまじさを感じた。津波時には、3階の屋上に30人が避難したが、その後、生存が確認されたのは10人で、屋上の金網につかまっていた職員も金網共々、次々と津波に飲み込まれていったそうだ。

津波に飲み込まれ鉄筋がむき出しとなった防災対策庁舎

【写真】津波に飲み込まれ鉄筋がむき出しとなった防災対策庁舎

 町庁舎を失い、現在は、南三陸町総合体育館(ベイサイドアリーナ)に行政機能が移っていた。そこには、多くの被災者が非難しており、今でもダンボールで仕切りをつくり、寝場所を確保していた。また、自衛隊や消防隊、医療チーム、災害ボランティア、マスコミ等、多くの人や車で溢れかえっていた。

 町のスタッフから被災者の生活の状況等について説明を受けた後、近くの老人施設や志津川湾に面した被害の大きい地域の対策本部に立ち寄り、南三陸町を後にした。一日も早い復興に向けた施策を思案しながら、車を走らせ帰宅した。


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