政治の焦点

政治の焦点(第31話)

平成の宰相論〜自民党総裁選から考える

当選五回、五十一歳の安倍晋三氏が自民党の総裁候補として最有力であると報道されている。自民党の総裁になるということは、ほぼ次代の総理大臣の座を手中にするということである。日本の政治の最高指導者はどうあるべきか。戦後六十一年、新しい総理の誕生に当り、二十一世紀の日本の総理大臣の器量と経綸(国家統治の方策)について考えてみたい。なお本稿は私の独断的推論であることをお許し頂きたい。

政治家は立候補するのは自己の意志によるが、当選するかどうかは自己努力をはるかに超えた力による。己の力で当選したと思ってはいけない。だから古来天命によるという言い方がされる。とは言っても、一般の国会議員選挙程度ならば、天命も時々間違いを犯す。しかしそういう人が国の宰相になることは滅多にない。宰相を選ぶ際、天命が間違うと国が滅ぶ。先のアジア・太平洋戦争の敗戦はそういう稀有な事例だ。それだけに用心深く人物を選定してもらいたいと願う。

最高の政治指導者たるものは、大器量人でなくてはならない。あらゆる人間を、あらゆる現象を包み込んでゆくような雅量がなくてはならない。「将の将たる器」であることが要求される。中国や韓国にとやかく言われたからといって、ムキになっているようでは器がまだまだ小さい。政治とは、人間界の最高の知恵を使って、良い社会を築いてゆくことだ。指導者に知恵があるほうが良いに決まっているが、たとえそれがなくても衆知を集め、その中から良い知恵を見抜き、うまく使っていくことができればよい。政治家は中国でいう君子、「士大夫」であって、専門分野は持っていても単なる専門家に止まっていてはいけない。

権力には必ず魔性が競いおこる。魔性は欲望となって正しい判断を狂わせる。ドイツの大学者、マックス・ヴェーバーは「善からは善のみが生ずるといまだに信じている者がいるとすれば、それこそ政治のイロハもわきまえない『政治的未熟児』である。・・・政治にタッチする人間は権力の中に身を潜めている悪魔の力と手を結ぶものである。しかもこの悪魔は恐ろしくしつこく老獪である。もし行為者にこれが見抜けないなら、・・・その当人を無惨に滅ぼしてしまうような結果を招いてしまう」(『職業としての政治』)とまで言い切っている。

私は経験的には、「修身、斉家、治国、平天下」ということは概ね正しいと思っている。これを戦前の教育勅語として読むのではなくて、「まず欲望に負けずわが身を正しく律し、家庭を円満にして、住みよい地域を創ることができて、はじめて国を平和に繁栄させることができる」と私は解釈している。中国の名君の誉れ高い唐の太宗(李世民)と、それを補佐した名臣たちとの政治問答集である『貞観政要』にも「未だ身理(おさ)まりて国乱るるを聞かず」とある。私は身を修めるには、正しい宗教・思想・哲学を根本とすると同時に、自分の誤りや欠点を指摘し直言してくれる師匠・側近をもつ必要があると思う。自らのうちに潜む権力悪を抑制するためには、眼に見える規制と、眼に見えない権威の両面から自分を縛っておかねばならない。

また、マックス・ヴェーバーは同著の中で、「政治家にとっては、情熱、責任感、判断力の三つが特に重要である」と述べている。そしてこの中でも判断力が「決定的な心理的資質である」としている。「すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である」という。これを失うと「卑俗な虚栄心」におぼれ、「権力を笠に着た成り上がり者の大言壮語や、権力に溺れたナルシシズム」に堕落するという。全くそのとおりであると痛感する。

政治の目的は、国民の幸福と平和にあることは明らかだ。だから大衆、国民の率直な意見を聞くことのできる仕組みを作っておかねばならない。既存の組織に頼るだけではなく、大衆に直結するルートを指導者自らが持たねばならない。そうしないと都合の良い情報しか入らなくなり、社会の第一線の現場のことが判らなくなる。日本国の宰相たるものは、国民の苦しみや痛みを知って、可能な限りその痛みをやわらげ、取り除こうという慈愛をもった人物になって欲しいものだ。

自民党総裁選の候補者のうち、私が直接話をしたことがあるのは谷垣禎一氏だけで、あとの安倍氏、麻生氏についてはテレビや新聞、著作などを通じて知るのみである。この八日には告示となりさらにその資質、経綸が明らかとなるであろう。公明党も連立のパートナーとして大いなる関心をもって注視していきたい。


つづく。

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