政治の焦点

政治の焦点(第30話)

歴史認識・東京裁判・靖国問題・戦争責任(3)

東京裁判の問題点と意義を整理してみたい。東京大学教授の大沼保昭氏によると、問題点としては、(1)「戦勝国が敗戦国を一方的に裁く『勝者の裁き』であった。このこと自体、公正な裁判の観念に反する。裁きの主体は独立の第三者たるべきであり、一方当事者が他方を裁くことは許されない。のみならず、裁く側が、広島・長崎への原爆投下、都市無差別爆撃、ソ連による日ソ中立条約侵犯など、みずからの手も裁かれる者と同様に汚れているという弱点をもっていた」(2)「事実上米国の日本占領政策の一環として遂行された。天皇の不起訴 (中略) などは、その具体的帰結である」(3)「みずからの文化を普遍的文明と称し、異文化を野蛮・未開とみなす、『文明の裁き』という建前で行われた」(大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』)等である。  

他方意義としては、「戦争違法化の流れのなかで、それを国家指導者の刑事責任を問うというかたちで実現したものだった。旧来の国際法が指導者責任の観念を知らず、国家の賠償責任というかたちで事実上国民全体に負担を科し、指導者責任を免責していたことに比べれば、それはひとつの積極的意義といえる」。また「東京裁判によって明らかにされた事実は、当時の時代状況にあっては、いかなる試みもとうてい比肩しえないほど質量ともに圧倒的なものとして日本国民の眼前にさらされることとなった」(同著)。
 
東京裁判を否定し、あの戦争は自衛のための正しい戦争であったとする立場からは、ここに記した問題点を理由にする人々が多いが、それをもって東京裁判を全く無意味とすることにはならないであろう。むしろ大沼教授の指摘する積極的意義を認め、さらに、人類は歴史から新たな叡智を獲得したとみるべきだ。たとえば、人道に対する罪という視点からは、米国による広島・長崎への原爆投下の罪が今後問われなければならない。そのためには、日本の南京大虐殺の罪(数には異論があるにせよ)は認めるべきである。また平和に対する罪という視点からは、帝国主義時代の西欧列強の侵略戦争と植民地支配について、責任が問われなければならない。そのためには日本の中国・韓国への侵略と植民地支配については、罪を認めるべきである。あの時代は、西欧列強も侵略や植民地支配をやっていたのだから自分たちは悪くない、というのではなくて、自分たちの罪を認めることによって列強の責任を問うほうが正論であり、人類にとって有益である。いつの時代でも歴史は再評価されるべきである。  

さて、日本共産党は戦前から唯一日本軍国主義と戦ってきた政党であり、自分達こそ正義であり、戦争責任を全く免れているかのように主張している。それは戦時中に治安維持法違反で逮捕され、戦後まで獄中で非転向であった指導者がいたからである。この点につき評論家の柄谷行人は、「まじめに責任を考えれば考えるほど、非転向の党指導者が偉大になる。戦後に日本共産党がもった権威は、ここにあります。このことが戦後の政治や思想を歪めることになったのです」(柄谷行人『倫理21』)と述べている。政治学者の丸山真男は、共産党に対して次のように批判している。少し長いが引用させて頂く。

「ここで敢えてとり上げようとするのは個人の道徳的責任ではなくて前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任の問題である。(中略) 共産党はそもそも、ファシズムとの戦いに勝ったのか負けたのかということなのだ。政治的責任は峻厳な結果責任であり、しかもファシズムと帝国主義に関して、共産党の立場は一般の大衆とちがって、単なる被害者でもなければ況や傍観者でもなく、まさに最も能動的な政治的敵手である。この闘いに敗れたことと、日本の戦争突入とはまさか無関係ではあるまい。敗軍の将は、たとえ彼自身いかに最後までふみとどまったとしても、依然として敗軍の将であり、敵の砲撃の予想外の熾烈さや、その手口の残忍さや味方の陣営の裏切りをもって、指揮官としての責任を逃れることはできない。戦略と戦術はまさにそうした一切の要素の見通しの上に、立てられる筈のものだからである。もしそれを苛酷な要求だというならば、はじめから前衛政党の看板など揚げぬ方がいい。(中略) 国民に対しては、日本政治の指導権をファシズムに明け渡した点につき、隣邦諸国に対しては、侵略戦争の防止に失敗した点につき、それぞれ党としての責任を認め、有効な反ファシズムおよび反帝闘争を組織しなかった理由に、大胆率直な科学的検討を加えて、その結果を公表するのが至当である」(丸山真男『戦中と戦後の間』)よという。誠に正鵠を射る見識であり、共産党の政治責任を指摘している。  

さらに評論家の吉本隆明は、「このような非転向は、本質的な非転向であるよりも、むしろ、(中略) 転向の一形態であって、転向論のカテゴリーにはいってくるものであることはあきらかである。なぜならば、かれらの非転向は、現実的動向や大衆的動向と無接触に、イデオロギーの論理的サイクルをまわしたにすぎなかったからだ」(吉本隆明「転向論」)と批判していることを紹介しておこう。


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