政治の焦点

政治の焦点(第35話)

「私の履歴書(渡邉恒雄 読売新聞主筆)」が指摘する日本共産党の本質的問題

昨年12月に日本経済新聞に連載された、読売新聞主筆、渡邉恒雄氏の「私の履歴書」を大変興味深く読ませて頂いた。何故ならば、読売新聞という保守を代表するメディアのトップが、実は戦後間もない頃、日本共産党の下部組織、東大学生細胞の幹部党員であったことが明らかにされているからだ。しかし、活動に打ち込めば打ち込むほど共産党の方針に対する疑問が膨らみ、その疑問から「主体性論争」を提起。それが無視できない広がりをもち、瞬く間に東大以外の大学でも支持を集めるに至ったために、とうとう党の逆鱗に触れ除名されたという。少し長いが引用させて頂く。

 「左翼の力が頂点に達した昭和22(1947)年の2.1ストのとき、私たち学生党員はある劇場の楽屋に集められた。そこで党の中央委員が『君たちの任務は電源爆破だ。電源が爆破されれば、この先5年は暗黒になり人民が飢える。人民が飢えれば革命が起きる』と演説した。
 「キャサリン台風が甚大な被害をもたらした直後、たまたま党本部にいると徳田球一書記長が被害の報告を受けていた。徳球は『しめた』と手を打ち『これは天与の革命のチャンスだ』と言う。人民が飢えると革命が起きるから飢えを作れ、飢えを喜べという論理の粗末さに呆然とした。
 共産党は『報いられることなき献身』を求める。それは宗教的献身とどう違うのか。消耗品の兵士になれということか。『個』の尊厳と主体性はどこにある。
 だがマルクスやエンゲルス、レーニンの著作には、それらの疑問に答える哲学や言葉が見当たらない。
 私は『主体性(エゴ)論争』を提起した。唯物史観に欠落している人間の道徳的価値を問うものだったが、論争はほどなく党内に無視できない広がりをもってきた。党中央にとっては組織の核心を揺るがしかねない厄介な問題だったのだろう。私に対する有形無形の圧力が増してくる。(中略)
 東大細胞は解散、私は除名された。除名の理由は『渡邉は本富士警察署のスパイであり、新人会を使って右翼日和見主義の害毒を撒き散らした』というものだった。」

 渡邉氏はさすがに哲学科の出身だけあって、日本共産党の本質的欠陥を鋭く指摘している。私なりにこれを解釈してみたい。

 まず、共産主義思想は革命遂行のためには暴力を辞さず、かつ生命の尊厳を否定していることが明白である。電源爆破(暴力的破壊活動)をして国民に暗黒生活を余儀なくさせ、飢えさせる。あるいは台風によって甚大な被害が出て人民が飢えることも喜べという。そうすれば革命が起きるという理屈だ。革命のためには、暴力に訴えることも、また国民が飢えて死者や犠牲者がでることも厭わない。恐ろしい、貧しい思想である。
 また、資本主義の様々な矛盾は、共産主義革命による労働者(プロレタリアート)の独裁政権を樹立することによってのみ解決されるというのが、共産党の主張だ。そのためには、独裁的エリート集団である党中央(前衛)の指示通り、一般大衆(後衛)は、個人の自由意志を抑圧して機械部品のように動かねばならない(民主集中制)。まさに「消耗品の兵士」に徹しなければならないのである。

 これでは、日本共産党の基礎理論、すなわち「マルクス・レーニン主義=科学的社会主義」の思想の一体どこに、人間の道徳的価値、すなわち「個」の尊厳と主体性があるのかと問われても仕方が無い。否、全く無いに等しい。国民生活の安寧や生命の尊厳よりも暴力革命第一主義、党員は主体性を放棄して党中央に対する絶対服従と軍隊的鉄の規律の遵守。これが日本共産党の本質である。今日、日本共産党が「いのちとくらしを守る政治の実現」、『悪政に立ち向かう市民の命綱』などと自己宣伝しているが、これほど空々しい悪宣伝はない。

 さらに、日本共産党の「科学的社会主義」の誤りは、社会体制を変えればすべてが良くなると勘違いしている点である。いかなる社会体制であっても所詮人間が作るものであるから、たとえ体制が転換しても悪い人間が支配すれば、人々は依然不幸のままである。むしろ、人間の心の内に潜む悪を凝視し、その悪を的確にコントロールしながら、善を増大させていくという地道でたゆまない実践が、社会改革の前提とならなければならない。
 いずれにせよ、このように考えてくると、現代の日本共産党の行動がいちいち頷けるからおもしろいのである。

つづく。


BACKHOME