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「独善的教育論」
なんだ、そんな事くらい当たり前ではないか、という人があろう。だが、この当然至極のことを学校では教えていない。これまでの多くの学校で教えてきたことは、立身出世のための学問であった。より偏差値の高い学校に入れば幸せになれると思い、激しい受験競争に耐えてきた。東大法学部(立花 隆氏によれば、東大法学部こそが真の東大であって、その他の学部は一般の東大というらしい。尚、氏は東大法学部卒は教養がないと指摘している。)を出て、大蔵省に入れば天下随一の秀才であり、日本のエリートであり、それが本人や家族の幸せを保証すると思われていた。 しかし、昨今の大蔵省をはじめとして、官僚のあきれるほどの不祥事の連続に多くの人々が何か間違っていると認識し始めている。官僚たちに、自分たちが一番優秀であって、その他の人間に何がわかるというのかという思い上がりはなかったか。もちろん彼らにも日本のためにがんばっているのだという自負はあろう。しかし、大学入試や国家公務員試験を見ても、確かに知的能力に優れていることはある程度わかるとしても、人間的に成熟しているか、人を幸せにするという思いやりのある人格かどうかは、まったく問われていない。戦後日本の社会は程度の差はあるにせよ、このように知的能力は高いが、人間的に未成熟な産業戦士を大量生産してきたとも言える。
さてここでひとつの疑問が湧いてくる。それは人には善い人と悪い人がいて、善い人は人を幸福にしようと思って悪い人のために尽くそうとする。悪い人は善い人を騙して自分だけが得をしようと考える。善い人は悪い人を幸福にしようと思ったが、逆に自分が不幸に陥ってしまう。そしてその善い人は苦しみの余り悪い人になってしまう。結果世の中は悪い人ばかりになってしまうのではないかと。そこで教育はこの悪い人に対して行わなければならないことになる。すると、結果は上の逆になって世の中は善い人が増えていくのである。 しかしもっと良く考えてみると、人間というものは一人の人間の中に、善と悪とが同居しているのである。生まれながらにして善、生まれながらにして悪ということはありえない。悪縁に触れれば悪が、善縁に触れれば善が現れるのである。特に生まれてまもないころから小学生かくらいの間に接した傾向性が、善か悪かによってその人の生命の傾向性の基盤が形成されるようである。このようなことから考えていくと、教育とはその人間のもつ悪に対して行うものなのである。悪の心と戦いこれを殺し、あるいは抑え、コントロールし、そのエネルギーを善へと転化させゆくことが、教育の目的であり、効果でもあるのだ。生涯教育とは年老いても学ぶという表面的な意味のほかに、実は人間というものは弱いもので一生涯、この悪の心と戦い、善なるものへと向かっていく姿勢を述べているのではないだろうか。
教育の根本はまさにこの幸福論にあるのであって、ここからすべてが出発する。ここのところをはきちがえているために、すべての改革がおかしな方向へと進むのである。では哲学はわかったが、現実の改革をどのようにすれば良いのか。これは大変至難な問題である。単に道徳の時間にこのことを教えれば良いというものでもない。私はひとつは教師の人格の向上が不可欠であり、世の親の生きる姿勢の問題であり、もっと言えば社会の指導者と呼ばれる人々、たとえば政治家や官僚、企業人、マスコミ等の資質の問題なのである。彼らがエゴイストであり、強欲で人をいためつけているからこそ、こどもたちが信用しないのである。様々な問題が噴出するのである。 このように学校の外の問題を野放しにして、学校の中の改革をやろうとしてもできるわけがない。ということは学校の外、すなわち社会人の再教育と学校の中、すなわち児童や生徒・学生の教育とを同時に行わなければならないのである。これも大変な問題である。しかしどんなに困難でもこれをやらなければならないのである。すでにこのことを実践し、世の中に語っておられる立派なリーダーもおられる。私は、政治家や官僚、マスコミ、企業のリーダ゙―などいわゆる権力を握っている人々への再教育こそ優先しなければならないと思う。政治家が「こころの教育」を叫んでいるが、「心の教育」が必要なのは他ならぬ政治家そのものである。 では誰がどのようにしてやるのか。難しいことではあるけれども、これはそれぞれの組織において、指導者教育というものを再構築してもらうよりほかないのである。さもなくば、一時的には栄えるようであっても、長期的には必ずその組織は衰亡する。政党や官僚がこれを怠れば、再び日本という国がかつてのように滅ぶのである。私が常々リーダー教育こそ必要だと説いているのはこのような理由からである。社会と学校は、社会を身体とすれば、学校はその社会を映す鏡のようなものであって、
親の責任 また子供は親の鏡であるとも言われる。学校が悪いのは世の中が悪いからだとわかっても、少なくとも自分のこどもは自分で何とかしなければならない。親自身がしっかりとした哲学を持って生きているならば、子供も立派な人間として成長することは間違いない。最近ある学校で、ある父親が「学校ではしつけをきちんとやってください。勉強は熟でさせますから」と発言した記事を新聞で読んだ。私は驚きあきれた。私は子供の成長の責任は、まず親にあるのであって、たとえどんなにひどい学校であろうと、親が自分の理想をもち、きちんと子供を導いていくのが親たるものの務めではないかと思う。確かに政治家をはじめとして社会の責任が重大であることはまちがいないが、どんなに社会がひどくても、親が自分の仕事や振る舞いを通じて人々に奉仕する姿勢であれば、子供もそのように育っていくものだ。 勉強というものは、何も自分の出世や金もうけのためだけにあるのではなくて、その勉強を通じてより多くの人を幸せにすることが人生の目的なのだと教えていかなければならない。自分だけが幸せになることはさびしいものだ。地位や肩書きを得ることはそれなりに大事なことであるが、心の貧しい人間になってはつまらない。人の気持ちがわかる人間にならなくてはいけない。いや、そんな甘いことをいっていては世の中では勝てないよという反論もあるかもしれない。目先は確かにそうかもしれない。しかし、目先にとらわれていては結局は成功しないし、軽薄な人間になってしまう。逆境に陥っても人の気持ちがわかる人がそれを乗り越える。じっくりと人間をつくりあげることだ。親も子供の指導者ではないだろうか。 教師の人間的力量
教育問題とは何か これまで、私の教育哲学について語ってきた。ここでは現実の深刻な教育問題について考えてみたい。実証的に検討しなければならない問題であるため、参考として現在東京大学教授の藤田英典氏の著書「教育改革」(岩波新書)を一部引用する。「教育問題とは、校内暴力、いじめ、不登校、対教師暴力といった「教育病理」、「学校荒廃」をさす。これらの原因として、管理主義教育と受験体制のプレッシャー、ゆとりのない画一的・管理的な教育があげられる。また人間関係の歪みや他者関係の未熟さに注目するものもある。さらに、現代社会も学校も個人の尊厳を基本にしていないから、これらの問題が起こるのだとする説もある。」藤田氏は、これらに加えて、「構造的・状況的な要因」を重視する。 「高校への進学率が90%を超える水準に達したということ」、「60年代から70年代にかけての高校進学率の上昇は、高校入試競争への参加者を一挙に拡大した。
「中等教育の秩序再編と都市化や情報化の進展を背景にして、全体主義的な入試競争や理不尽な管理主義・統制主義のプレッシャーが臨界点を超すような状況、自己充足的な教育の理想や相互親和的な規範が失墜したアノミー的状況が出現したために起こったことである。それだからこそ、80年前後の校内暴力やいじめが、熱病的な様相を呈し、もう一方で学校・教師が体現する権威への反抗いう様相を呈したのである。」 「今ひとつ重要なのは、学校を取り巻く社会状況の変化と、そこでの青少年の心的構えの変化である」「70年代には、大衆消費社会・情報化社会といわれる状況が出現した。「消費社会が育む文化は学校社会や入試競争が要求する禁欲的な生活スタイルと矛盾しており、その矛盾はさまざまの葛藤や衝突の基盤となる。」「情報社会は、学校という特殊な情報空間(=統制された学習空間)とはまったく異質な巨大な情報空間を学校の外につくりあげる。」「管理主義教育批判から校内暴力・対教師暴力へという当時の展開は、そうした二つの異質な社会生活の編成原理−学校化社会と情報・消費社会−が拮抗するようになり、さらには、学校化社会のそれがゆらぎ、従前のような統制力を保持できなくなったことの現われと見ることができる。」 「消費社会はボーダーレスな金銭感覚を育み、情報社会は多様な行動モデルを提示しつづけ、規範感覚の弛緩をうながし、都市社会は自由(自己主張)と孤立(自己疎外)を拡大している。もう一方で、日常の生活は、規範的な制度的枠組み(学校、家族)と具体的で干渉的な他者関係(家族関係、仲間関係、教師・生徒関係)の中で展開している。そうした状況がつくりだす軋轢のなかで、いじめや不登校、家庭内暴力といった「病理的」現象が起こっているとみることができよう。」私はこれらの藤田氏の分析に完全に与するものではないが、概ね正しい認識であると思う。 受験競争はなくならない
どうすればよいのか 現在の教育問題が、単に学校の枠組みだけの問題ではなく、社会状況をも含めた複合的な要因の重なりあいから発生しているとすれば、その解決方法は教育制度を改革すればすむというものではありえない。 中高一貫教育というのは、高校入学の試験を廃止することで受験競争を緩和するようにみえるが、実はそんなことはありえない。すべての高校入試を廃止することは現実には不可能である。それは義務教育制度全体の見直しであり、それは高等教育機関を巻き込むもっと大きな改革を視野にいれなければ、必ず失敗する。今の文部省の薦めている一貫教育は、一部のエリート公立学校を再生しようとするものである。また、これではそれに入る為の中学入試がますます激化して、小学生にまでフラストレーションが拡大する。私立中学への入試はすでに厳しいものがあるが、それが一部公立中学の入試にも発生することになる。 学校週五日制も、教師の責任放棄を一部認めるようなもので、これで学校のゆとりがでてくるわけではない。経済力のある家庭の子女は塾に走り、そうでない家庭との教育投資の格差は拡大する。学校内の問題が学校外に非行として噴出する可能性もある。さらに日本の基礎学力の低下も覚悟しなければならない。 近時文部省が教科内容の大幅削減も打ち出しているが、これは下手をすると日本の生徒全体の学力低下を招く恐れがある。しかしながら確かに社会で生きていく上で必要な知識はそれほど多くはないと思う。むしろ空いた時間で人間の生き方を考える工夫が凝らされるべきだろう。そういう方向性ならば、意味のある改革であると思う。 制度改革で教育は必ずしも良くならない。むしろ中身。そしてその哲学が最も大事であると思う。何の為の学校か、何の為の学問か。何の為の受験か。これらの根底に幸福とはなにか。このことについての哲学がなければならない。そして社会とはなにか。実態はいかなるものか。その中で生きることはどれほどのものなのか。どんな人間がいるのか。こういうことについての心構えと実感が多少とも必要である。職業とは何か。夫婦とは何か。家族とは何か。このようなことを考えさせ、教えなければならない。 しかもこれらはそれだけを単独で教えるというよりも、あらゆる教科の中で考え
その上で小学校から高等学校までの教育課程の中で、具体的実践論として、一般教育課程の中で農業体験、勤労体験などの社会教育を実施していく必要があると思う。実はすでにいくつかの学校では導入されているのであるが、このような体験の中から社会と学校との関係、学問の意義付けなど、個別の問題意識を醸成させていくには良い方法であると思われる。また数学や理科などすべての教科が、実社会ではどのように活かされているのか、具体的に教授することが望まれる。 高等学校以上の教育機関では、社会の現実と矛盾について、様々な角度から教え、考えさせなければならない。そのような倫理学、あるいは哲学の講座は必修とすべきである。倫理学や哲学と言えば、ギリシャやローマから教えるから時間がなくなるし、あまり役には立たない。むしろ、現代の諸相から逆に過去にさかのぼって教えていくことが必要だと思う。そして自分の頭で考えていく訓練をしなければならない。大学を卒業するまで各種試験の受験勉強しかしなかったような人は、社会ではしばらく何の役にも立たない。大学では自分の専門以外の勉強をいろいろやった方がいい。一見何の役にも立たないようにみえるが、これが教養である。人間の幅を広げるし、人生を豊かにする。 自<分の行く末を決めるには、自分の内にある好き嫌いの直感をするどく見つめ、最初はそれがまったく説明のつかないものであっても、ひとつの大切な価値として拾い出し、やがて論理的に自分の中で組み立ててゆく作業が必要である。人の意見を参考として、どんなに強く説得されても、影響されずに、自分自身の中で確信を再構築していく粘りが大事である。但しそれは偏見や先入観も捨てて、自分の目で確かめていくという実証作業が不可欠であることを付け加えておこう。それが自己の確立ということだろう。 とはいうものの、ほとんどの学生が社会人に騙されて、就職を決めているのである。それほど、社会というのはエゴイストの塊である。理想とは程遠い。立派な人物は数少ない。堕落する誘惑はいっぱいある。その中でどう逞しく、かつ充実していきぬいてゆくか。こういうことをこどもたちに語らなければならない。理想ばかり教えていても駄目だ。 社会とは自分の思うようには決してならない。また完全無欠な人などありえない。失敗が当たり前。等身大のありのままの自分を見つめよう。今自分がもっているものを大事にしながら、そこから一歩一歩挑戦するしかない。決して臆病にならずに。駄目でもともとなのだから。今の自分に満足できるようになると、人生が楽しくなる。強くなる。恐いものがなくなる。 社会は全く不公平、不平等、不公正にできている。公平、平等、公正などはほとんど存在しない。しかしこれでは人々の格差が広がる一方で社会の安定を欠くので、
戦後教育は理想主義を導入しているから、競争主義を前提としながらも、公平・平等・公正に近づけようと工夫を試みた。受験競争というのは、まさにそれであり、これらの理想にかなり近い制度だと思う。それは試験というのは、その人の能力を測る明確な基準であるからだ。 明治維新のように、近代国家を建設しなければならない時代には、門閥にかかわらず広く人材を求める必要があり、試験制度は有効であったと思われる。しかし日本もここまで教育水準が高くなってくると、人々が試験制度にとらわれすぎて自由な発想を抑制し、社会の停滞を招くようになり、またこれまでのべてきたような様々な問題を惹起するようになったのである。 だから試験制度は、評価の一定の一助としつつも、それを絶対視する必要はないのである。社会における評価は、試験の点数だけで行われるのではなくて、もっと全人格的な評価基準を導入していく必要があるし、現実にもそうなっている。 しかししそれにしても社会は矛盾だらけだ。大蔵省のように試験の点数だけで自分たちが一番偉いと勘違いしている人間もいる。善人ほど苦しまなければならないのがこの世である。けれどもそれが社会の実相なのである。一見いじめられ、痛めつけられて、貧乏籤ばかり引かされているように思われても、本当の実力があれば必ずいつの日か認められるものだ。世間が放ってはおかない。その日が来るまで黙々と、自分らしく力を蓄え、腕を磨いていくことだ。きっと、その成長過程を楽しめるようになる。 失敗が、今まで見えなかったものを見えるようにしてくれるし、人の心もわかるようになる。挫折している時ほど様々な勉強をしよう。挫折して、苦闘している時の思想がその人の永遠に残る思想となる。欲しいものがすぐに手に入ればこれほどつまらないことはない。我慢するからこそ、手に入れたときの喜びが大きいのだ。人は我慢している姿が美しいと思う。それはただ耐えているのではなくて、今あるものを大事に、今あるものに愛情を注ぎ、今あるものに精一杯の喜びを見出すことである。 所詮、名誉や地位はこの世の飾りに過ぎない。大事なことは人生の中身の充実である。そのためには一つくらい自分を捨てて、人に与えることがなくてはならない。
京都大学名誉教授 (大阪電気通信大学理事長) 福田國彌 その一「入試改革」 大学入試改革、猫の目の変わるような入試方法で受験生は可哀想だ。「入試の多様化」と文部省(あるいは大学設置審と言うべきか)が言うと、すべての大学が多様化を一様に採用する。日本国のすべての国公私立大学は文部省の指示に極めて柔順である。 文部省は大学がそれ程柔順であることを心得て、大学の抜本改革を実施すべきだ。現在行われている教育改革は、古びた現状のうえの薄化粧かと、先が思いやられる。 全国の国公立私立大学教員全員に任期制一斉施行を指示するのも抜本改革の一つ、また例えば、各大学はその個性を明確にして独自の教育と研究と運営をやり
大学に対する細かな規制は止めて、根本の規制−おそらくは教育の倫理規制の<みか−のもとで、未来を約束する本来の教育改革を求めるのが文部省の役目である。 教育改革の大河を渡る船を繋ぐ船着場は何処にあるのか。「津を問う」てそのありかを知っているのは孔子さまのみか。 その二「任期制」 私は三十年来の大学教員任期制の信奉者である。 大学紛争当時京大工学部に在職していて、小人数の改革案作成作業の一員に加わった。その中で、本当にその改革をやる可しと思っていた馬鹿は私一人だったかもしれない。以来、正確にはさらにそれ以前から戦後大学の研究生活に戻って以来、大学改革論者である。 教授十〜七年、助教授七〜五年、助手(本当は助手のない制度を考えているが)五〜三年の任期として、定年制を廃止する。文部省はこれを全国の国公立私立大学に一斉に指示する。実施方法やその過渡措置には用意があるがこれは省くとして、任期制実行を怖がることはない。優れた先生はさらに十年を、またさらに十年をと、九十才大分おボケになられた、今回はお辞め下さいとなる。一方、阿呆な教授は五十才でもどこかへ去れ!となる。 私が京大を退官し、現在の大学の学長になって暫くしたある日、一人の若手教授が学長室にやってきた。「先生、うちの学科のX教授はボケてますネン。老人教授は困る。」「ぼくもたしか同い年だヨ‥ボケてるか。」「先生はまだ大丈夫です。」「そうか、それでもやがてボケるからボケたと言ってくれヨ。その時はすぐ辞めるからナ。」「そらアカン!ボケてから言うたら先生、わしはボケとらん!辞めん!と怒りますヨ。」 斯くの如くボケ教授を辞めさすのは難しい。従って任期制の必要あり。 その三「科学振興」 わが国の科学技術行政は、海外先進国でやっていることはすべてやらねばならぬということにあるようだ(根本的独創性否定)。原子力船が海洋観測船になっている。はじめから観測船を作ったほうが安上がりだ。「もんじゅ」。ナトリウムを扱ったことのある物理実験屋の私は、どんなに恐ろしいことが起こりうるかと思う。過去に海外で重大な事故があった。 核融合研究には莫大な資金が流れていた。それを横目に見て、私は長くプラズマ素過程研究を主催した。プラズマ内部の原始の挙動を知ることの方が大切だと‥。 アムトラックのプリンストンの駅に出迎えてくれたヒノフ(博士)との初対面は、もう二十年以上の昔になる。痩せた小男、ラフなシャツ、サンダル履き。ボロのワーゲン
その後私がUS・JAPANセミナを京都で開いた時、誰が呼んでも来ない筈のヒノフがやってきて周囲を驚かせた。また、私の推薦で若い研究者を彼の研究所で世話してくれた。私は彼のために「火野夫」という印鑑を作った。「春日野の飛火の野守出でて見よいまいくかありて若菜摘みてん」。核融合炉の火(プラズマ)の分光観測をしている彼に相応しいと思ったが、同時に、わが国から独創的な若い研究者の若菜が現れることの期待もあった。 その四「大学運営」 わが国大学組織運営の源流を尋ぬれば…明治の帝国大学から…当時からは想像もつかぬ数の当今の大学に至るまで、教授の月給だけは下がったが、相も変らぬ有り様と教授のプライド。 研究・教育・管理運営のために教授は多忙だ、という。教育では一度作った講義ノートを何度も使う。研究では若者のアイデアをわが物の如くする。管理運営とて、教授会で居眠り、起こされて慌てて投票する。悪口ばかりで恐縮だが、良心的な教授は研究に専念して他の役目を適当にしておく。それなら教授会を廃止すればよいが、やっぱり教授会という大船には乗っていたい。 文部省は大学に副学長を置く可しという。偉い人を増やせばうまく行くというわけではない。要はシステムの問題だ。各大学お好きなように運営して下さいと言えばよい。大きな大学の各学部はカレッジとして学長を置き、独自の管理運営役職を持つ。法経文理工医薬等と異なる学部・分野が異なれば、あり方が異なるのは当然と思われる。 私は京大の理・工学部に在籍し、今は工科系私学にいるが、理工系学部のあり方の一つとして、研究・教育・管理運営の三役職を分離し、その間に任期を設けて教
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