教育基本法改正と「愛国心」について

この問題の最大の争点が、「愛国心」を盛り込むかどうかであることは、周知の事実である。盛り込むべしという自民党諸氏の多くは、現在のような道徳の低下した乱れた日本になったのは、戦後教育の中で自分の権利ばかり主張することを教え、共同体や国家に対する義務や責務を教育しなかったからであるという。
  もっともな議論に見えるし同調する人々も多い。しかしながら、私は慎重に考えるべきであると思っている。その理由を以下に述べたい。

確かに権利を主張するだけではなく、同時に社会に対する責務や義務も教えなければならない。道徳も必要だ。ただ、そのことを実現しなければならない最高・唯一の手段が、はたして「愛国心」なのだろうか。どうもそこには飛躍があるようだ。

むしろ「自分のことばかり考えないで、皆のことも考える」、「共に汗を流すことを大切にする」、「身近な人々を大切にする」、「地域の文化や伝統の素晴らしさを見直す」「人間とともに、自然の生命を慈しむ」といった具体的な教え方がいくらでもあるはずだ。その方が子どもたちにもよく理解できる。

「愛国心」にはやはり弊害がある。それが国家意識や民族意識を駆り立てるものであり、対立や紛争の原因になることは知られている。戦前のことを持ち出すまでもなく、最近中国で行われたサッカーの国際大会で反日トラブルが生じたことは記憶に新しい。

太平洋戦争中のことをあげればきりが無い。しかし、前線の兵隊達が凄惨な戦いを強いられて全滅していた時、また毎夜本土に焼夷弾を投下され人々が阿鼻叫喚の地獄に喘いでいた時、さらに沖縄戦で「愛国心」教育を叩き込まれていた島民が真っ先に自決を選んだ時、戦争指導者や政治家は一体何をしていたのか。ひたすら「愛国心」を煽って国民を戦争に駆り立て、忍従を強いていたのは誰であったか。「愛国心」の結末は、戦争終結のために何ら有効な手立ても打たないままに、広島・長崎への原爆投下という未曾有の悲惨を迎えたことであった。先の大戦で「愛国心」を叫んだ偉い人達は、国民に「愛国心」を強制するだけで、如何ほど国のために尽くす気があったのだろうか。

故に戦後「愛国心」は信用を失った。今回の問題でも、「愛国心」を主張する政治家達に本当に「愛国心」があるのか心配だ。「愛国心」の犠牲になるのは、いつも善良で真面目な国民なのではないのか。

こう言うと現代日本ではそんなことはあり得ないという人がある。しかし、自民党や民主党の諸君の憲法九条改正論がもしも現実化すると、日本の自衛隊に集団的自衛権の行使や集団安全保障が認められ、「愛国心」の美名のもとに武力行使が当然視される状況が作り出されるのではないか。その時にいつも安全地帯にいるのは、「愛国心」を言い出した政治家達である。

私は日本という国を否定しているのではない。「日本の文化や伝統を尊重すること」に何の異論も無い。ただ共同体への責務や道徳を再興するために、「愛国心」を持ち出す必要は無いと言っているのである。



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